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電灯線依存症の克服

3月13日の記事で書いたことをもう少し広げて論じてみたい。

[「電灯線」は、住宅などに電力を供給する電線をさす。1960年代に子どもだったわたしが習ったときにはこれが標準的表現だったのだ。すでに電気釜をはじめとする家庭電気機器が普及していたから、この表現は時代遅れだった。おそらくその10年ほど前は家庭の電力消費の主役が照明(次はラジオ)だったので、当時のおとなたちにとっては自然な表現だったのだろう。今どきの表現は「グリッド」なのだと思うが、わたしにとってグリッドは等間隔に線を交差させた図形のことであり、とくに「電力グリッド」と言ってもらわないと意味が通じない。「依存症」は新しい表現で、1960年代に習った表現は「中毒」だったが、今の文脈で「毒」を持ち出すと誤解を招くから、時代背景の違うことばを組み合わせた表現にしておく。]

3月11日の地震の直後、わたしのいたところ(横浜)では、停電にもならず、インターネットも通じていた。そのときまず気づいた(そして13日の記事に書いた)ことは、実際に建物などがこわれてしまったところ以外に、広い範囲で通信がとだえてしまったことで、それはおもに、サーバーマシンや携帯電話中継局などが、こわれた場合もあるが、むしろ停電で止まってしまったことによるようだった。

その後、いわゆる計画停電を含めて、停電は、電力を使っていると意識しないいろいろなところに影響をおよぼした。ポンプに頼っていたところの断水は電力のエネルギーが必要な例だが、交通信号機が止まってしまったのは情報処理が電灯線からの(わずかな量の)電力に依存していた例だ。

日本の電力は、世界では異常なほどに停電が少なくまた電圧が安定していることで知られている。これは、太陽光・風力などによる電気を電力会社が(外国の同業者に比べて)受け入れたがらない理由にもなっているだろう。入力が大きく変動したのでは、ヨーロッパ標準の質の電力は供給できても、日本標準の質の電力を供給できないのだ。

安定した電力はありがたいことなのだが、生活も産業もそれを前提として発達してしまったので、それの供給が止まるといっぺんに困る。突発事態による一時的停電ならば、そのときだけ仕事をあきらめればすむが、毎日のように停電の可能性があるとなると、それに適応して仕事を組みかえなければならない。

間接的に聞いた話で、とてもなさけないと思ったのは、都市ガスによって電気と熱を合わせて供給するコジェネレーションシステムは、燃料電池内燃機関両方式とも、都市ガスの供給に問題なくても、正常に機能している電灯線につながっていないと誤動作するのだそうで、停電時には止めてほしいと言われたそうだ。太陽光発電のほうは自立できたらしい。

計画停電といっても前から計画されていたわけではなく地震以後にあわてて立案されたものなので、社会として停電させたくない重要なものと一般のものとを差別することがうまくできない。

3月27日のNHKテレビのニュースに「計画停電で電池生産落ち込む」http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110327/k10014929651000.html というのがあった。群馬県にある電池工場で、被災地を含めて電池の需要は高まっているにもかかわらず、停電のたびに生産ラインを止めて再開するのに10時間かかるため、生産能力が落ちてしまっているという。はたして日本国の政策として、この特定の工場に電池の連続生産ができるように優先的に電力を供給するべきかはわたしにはよくわからない。しかしやや一般的問題として、安定した電力という生産要素の配分に関する政策判断が求められていることは確かだ。

電車も14-15日には計画停電の可能性だけで大幅に運休となり、せっかく設備があるのに多くの人の通勤通学がむずかしくなった。数日で電車は特別扱いという政策判断があり、首都圏(茨城を除く)ではふだんより便数は少ないものの平常に近くなった。(しかし電力とは別の災害波及効果もある。4月2日のNHKニュースで、JR西日本で「震災で部品不足、運転本数削減」http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110402/k10015063941000.html という。)

都市部では生鮮食品が品薄になった。とくに牛乳が少ない。放射線が検出された地域での出荷が止められたことも無関係ではないかもしれないが、主要因ではないだろう。パッケージ材料が届かないからだという場合もあるそうだ。しかし主要因はおそらく、生産地から消費地まで、冷蔵状態を保って運び、保管するしくみが、電力が利用可能かどうかが不確かになったため、うまく働いていない、ということではないだろうか。なお、そのわりには、(わたしの見る狭い範囲ではだが)鮮魚は不足していないように見える。これは何十年も前から、氷に詰め、氷は少しずつとけながらでもかまわない形で運ぶ方法が確立しているので、停電しっぱなしでは困るが、3時間程度の停電には耐えられるのではないだろうか。

今後は、電力生産に成長の限界があると見なければならないだろう。限られた量の電力を賢く使わなければならないのだ。そこで、電力供給網をいわゆるsmart gridにして情報技術で管理しようという発想がある。そう考える人の全部ではないが、なるべくたくさんまとめて集中管理するのが望ましいと考える人もいるようだ。わたしはむしろ、管理は分散するべきだと思う。(個人レベルまで分散させる内容は個人で管理しやすいものに限るべきだが。)

電力全体に限りがあるのだから、社会全体として需要を見直し、ある種類の使いかたは禁止する、またある種類の使いかたは他の使いかたより優先順位を下げる(停電の優先(?)順位を上げる)、といったことも必要だろう。これまでは緊急事態として電力会社にいわば全権を与えてしまっていたが、これからは対立する希望のどれを優先するのかを決める調整機能をもった社会を作っていく必要があるだろう。

次に大事なのは、社会にとって必要であり、数量として小規模なものは、ふだんは電灯線を使ってもよいが、いざというときには電灯線なしで動くようにするべきだろう。交通信号、常時動かす必要のある医療機器、通信の中継局、非常時にも必要な情報サーバーなどがあてはまるだろう。太陽光・風力・水力などの自然エネルギーを利用できるようにし、またその場でかなりのエネルギーをたくわえておくしかけが必要だろう。今のところエネルギーをたくわえるしかけにコストがかかるので、この方法で確実性を確保できる対象はそれによって限られる。とくに情報サーバーに関しては、停電時には止めるものとのしわけ(あきらめ)が必要になる。

個人用の端末機器などは人力で発電・充電可能にしておくのがよいと思う。エレベーターも、いざというとき(停電中にも歩けない人や荷物を運ぶ必要のあるとき)だけは人力でも動くように設計しておいたほうがよいのではないだろうか。

そして、電灯線に依存すると決めたものは、停電中止まるのはやむをえないとして、停電が故障につながらないように、また停電対策に人が特別に気を使わなくてすむように、設計していく必要がある。あわせて、電圧の変動もこれまでよりは大きめのものを許容できるようにしていくべきではないだろうか。