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汚染物質あるいは放射能の輸送シミュレーションによる情報提供のむずかしさ(もう一度)

前回(3月26日)の記事で書いたことの実質くりかえしになりますが、日本気象学会理事長の学会員向け声明(前回の記事中にリンクをつけました)をめぐって「気象学者が責任を果たしていない」という批判が聞こえるので、筋道をたてた弁解を試みます。(なお「放射能」という用語については3月26日のもうひとつの記事参照。) 個人としての意見です。気象学会を代表するものではありませんが学会員という立場をいくらか意識しています。

本論にはいる前に、気象学会理事長は気象学者を支配しているボスではありません。シミュレーション能力のある気象学者たちの多くが結果を公表しなかったのは、理事長から強制されたからではなく、自発的意思によるものです。

そのうちには、社会にかかわることに消極的だったにすぎない人もいるでしょう。しかし、専門家として、また税金で仕事をしている者として、情報を発信する責任を感じながらも、制御できないパニックの源を作ることを避ける責任のほうが重大だと考えて、発信しないと決断した人もいます。(危険があるのに警告しないことによる損失もありますが、危険がないのに避難行動をとることによって交通事故を起こしたり病気が悪化したりする損失もありえます。今の事態に対して大まかな警告はすでに出ているのであり、シミュレーションは残念ながら警告のレベルをきめ細かく変更するのに役立つ情報を提供できないという判断なのです。)

各地の放射線量の予測にとって、大気による放射性物質の輸送(移流・拡散)の予測は確かに必要な部分ですが、すべてではありません。現地で人が体験する、あるいは線量計が検知する放射線のうち、一部は大気中から来ますが、むしろ多くは、地上に落ちた放射性物質から来ます。地上に落ちたものが表面にとどまるか土壌にしみこんでいくかなどの過程の定量的評価が、人間に対する影響を評価するためにも、また線量計による観測値によってシミュレーションを検証するうえでも必要です。ところがその過程についての知識があるのは気象学者ではなく、土壌あるいは放射性物質の専門家です。SPEEDIを開発した原子力安全技術センターを別として、その他の学者は、このような専門にまたがる課題にとりくんでおらず、いざというときにだれと組んだらよいかもわからない、あるいは相手がわかってもお互いの言うことがわかるまでに手間がかかるのですぐには計算ができないのです。

また、定量的意味のある線量の予測をするためには、放射性物質の核種別の放出量を与える必要がありますが、今回の事故では発生源付近の線量計あるいはその情報を伝える通信系の故障が多く、その後あらためて観測網ができてきたものの、過去の重要な時刻の放出量の数値がわかりません。できるのは、放出量を仮想的に与えたシミュレーションに限られます。

ところが、最近の日本社会での情報伝達は、ツイッター(twitter)をはじめとして、短いメッセージが早く広まるような形に偏って発達してしまいました。そして、危険側、安全側いずれにしても極端な予測情報は広まりやすいですが、中庸の情報は広まりにくいです。発信者はどのような仮定に基づいて何を求めたシミュレーションであるかを正確に述べたとしても、なん段階かを経て伝わるうちに、現実の各地の線量あるいは放射性物質量の予測値であるかのように化けて広まり、訂正メッセージはその広がりのうち狭い部分にしか伝わらない、ということが起きる確率は、とても残念ながら、1に近いでしょう。

空間分布をもつシミュレーションをすれば、結果は空間分布をもつ形で示され、地図に重ねることができます。それを地図を読める人が見れば、自分のいる狭い地域に注目して見るでしょう。しかし、輸送シミュレーションの結果をあまり細かく見てはいけないのです。

シミュレーションでは空間を格子に切って計算しますが、升目の大きさには限りがあります。升目の内側は平均化した扱いをするしかありません(その部分にもいろいろなくふうがされていますが)。さらに、升目のひとつひとつの計算値に意味があるわけではなく、縦横にそれぞれ数個をまとめて見るべきなのです。サインカーブを例にとると、1波長に升目が2つではまったく表現できないことがあります。形の再現には6つくらいほしいです。格子間隔が1kmだとすれば、実質表現できる最小スケールは約6km四方くらいなのです。

さらに、流体の流れは非線形現象です。(地上に固定した座標系で運動方程式つまり速度の時間変化の式をかくと、速度に比例する運動量が速度によって流されるので、速度の2乗の項がはいってきます。) 初期状態について観測誤差の範囲で違いを与えて複数回シミュレーションをしてみると、濃度の高く出るところが一致しないこともあるでしょう。1回のシミュレーションである地区の濃度がまわりより高いという結果になっても、その地区がまわりの地区より危険だと予測されたと言ってよいとは限らないのです。

ところが、最近の情報伝達の発達のもうひとつの特徴として、画像、とくに動画によるものが好まれます。個別の回のシミュレーションで高濃度のかたまりが動いていくのは一見わかりやすいです。多数回のシミュレーションの結果を表現する画像をつくるのはこれよりむずかしく、できたとしてもあまり見ばえがよくありません。しかし、個別の回でどこどこの濃度がいつ高くなるということは、一見特徴に見えても、科学的には計算上のノイズにすぎない可能性が高いのです。(残念ながら、それが有意な結果であるかを検証するには時間がかかり、緊急の目的には間に合わないかもしれません。)

流体力学過程に加えて雲・降水過程の問題があります。水蒸気・気温・風の分布が与えられれば数十kmの地域の平均的な降水活動の予想はつくものの、そのうちどこに雨が集中して降るかの予測は原理的に困難です。放射性物質が雨によって落ちて地上にたまるとき、地域のうちでどの地区に多くたまるかは、たぶんシミュレーションのとおりにはならず、実際どこに雨が降ったかを知って推定する必要があります。

このような状況で、シミュレーションによって印象深い画像を提供することは、罪作りなことなのだと思います。

このままでよいと思っているわけではありません。今回の災害には間に合いませんが、平時に、関連しあう複数の専門分科の人が必要に応じて組んで仕事ができるような準備や、複雑なシミュレーションの結果を多くの人に不確かさに関する事情を含めて偏りなく理解してもらえるようなくふうを進めるべきだと思います。