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電子メール暴露、いわゆるClimategate

2009年11月に、(少なくとも気候関係の)科学研究者にとっては恐ろしいことが起きた。イギリスのEast Anglia大学のCRU (Climatic Research Unit、日本の大学ならば「気候研究施設」というような名前になっていたと思う)の研究者が約13年前から最近までにやりとりした電子メールを含む文書データが、インターネット上で暴露されてしまったのだ。

公共の資金をもらっている研究所の職務上のメールだから、プライバシー侵害というのはあたらないかもしれない。しかし、研究者はふつう通信の秘密を前提として仕事をしている。第1に、人事とか、競争的研究資金への応募やその審査とか、論文の査読など、関係者以外に読まれては困る情報を電子メールで送りあっているが、国家機密や企業秘密ではないので暗号化などの手続きを踏むとは限らない。第2に、特定の相手だけに読まれるはずのメールでは主観的な感情を含む発言をすることが多い。他の人が読んだら違う意味にとられるような表現をするかもしれない。これがいつ暴露されるかわからないとなると、仕事のしかたを変えなければならない。

わたしは暴露された電子メールの内容を直接見ていない。またそれをさかんに話題にしている、いわゆる温暖化懐疑論者のブログも見ていない。Wikipedia (英語、日本語)と、気候関係の科学者のブログ(メールの主として話題にされているMichael Mann氏も参加しているRealClimateと、そのほかいくつかの個人ブログ)、それらから参照された新聞などのマスメディアの記事を見ることによって情報を得ている。その限りでは、どうやらメールを暴露した人は、上に「第1に」と述べた秘密にするのが当然であるメールを注意深く取り除いて暴露への批判をかわし、「第2に」と述べた主観的発言を問題にすることに成功しているようだ。

さて、この事件にはClimategateというあだ名がつけられた。Wikipediaでも当初この名前の記事が作られたらしく、今でもいくつかの言語ではそうなっているが、現在英語版では「Climatic Research Unit hacking incident」[2010-05-15補足: その後、Climatic Research Unit email controversyに変更された]、日本語版では「Climatic Research Unitメールハッキング事件」[2010-06-04補足: その後「気候研究ユニット・メール流出事件」に変更された] がおもての名前で、「Climategate」「クライメイトゲート事件」はそこへ誘導する別名となっている。このあだ名は、明らかにウォーターゲート事件を意識したものだ。

秘密であるべき電子メールを読み出すことは、盗聴とよく似ている。ウォーターゲート事件では、ウォーターゲートビルディングにあった民主党事務所に盗聴をしかけたのがニクソン大統領再選委員会の関係者だった。それとの類推をするならば、メールを読み出したのはだれか、それをさせたのはだれか、それで得をするのはだれかを追及するのが筋だろう。

(ブラックなダジャレであり本気ではないが、「これで得をするのは○クソンだ」と言っても、「しかけたのは○クソンにちがいない」とまで言わなければ、誹謗中傷にはあたらないと思う。善意の○クソン関係者[2010-02-26補足: ○PCCにしっかり貢献している人もいるそうだ]には申しわけないが、○クソンが温暖化に関する科学のあやしさを強調する宣伝キャンペーンのスポンサーだったことはよく知られている。[2010-05-15補足:ただし◯クソンは必ずしも最大のスポンサーではないらしい。])

しかしClimategateということばを使って責任を追及されているのは、CRU内外の気候研究者のほうだ。これでは、ウォーターゲートで盗聴された内容を使って民主党をつるしあげているようなものではないか。

ところがまた考えてみると、アメリカ人にとってWatergate Scandalとは、盗聴自体ではなくて、それが発覚したあとのもみけし工作に大統領自身がかかわっていたことなのだろう。ウォーターゲートで盗聴された音声自体が放送されたことはないと思うが、調査の過程で提出させられたホワイトハウスでの会議の音声はたびたび放送されたのだ。CRUの科学者は、ニクソン大統領と同じ立場に立たされてしまったのだ。

研究所長も含めて大学教職員は勤め人にすぎず権力者ではない。それを追及する側の理屈は(本気で信じている人も、策略として言っている人もいると思うが)、CRUの研究がIPCCに採用され、IPCCの報告が気候変動枠組み条約締結国会議(COP)の材料に使われ、COPが大統領や総理大臣が出席するほど政治的に重要なものになっているので、CRUも世界規模の政治権力の一部として重要な役割を果たしているというものらしい。

電子メール暴露をきっかけとして勢いづいた温暖化否定論の中には、IPCCが議論している温暖化の科学全体がでっちあげだと言うものまであったようだ。さすがにこれはまじめなジャーナリズムでは通用していないと思うが、個人ブログどうしのネットワークではお互いに強めあって生き残っている部分もあるようだ。それよりももっともらしいのは、政治的目標に合う研究成果に関して評価が甘くなっているのではないか、というふうに、科学の質を疑うものだ。

一般社会の法律や倫理に関する問題としては、CRUの研究者はイギリスの情報公開法(Freedom of Information Act)に基づく請求をのがれようとしていた、という件がある。暴露された文書データはFOIA.zipという名前のアーカイブファイルにはいっていたそうだ。これは研究者自身が情報公開法にそなえて準備したものだとは思えない(それにしては内容が雑多すぎる)。しかし、だれか、研究者が情報公開請求にこたえないのを不満に思った人が暴露を決行した、という推測は、もっともらしいところがある。

ただし、研究者側から見て、情報公開請求のうちにはあまりにしつこいものもあり、それにすべてこたえていたのでは本業にさしつかえる、という判断もあったのは確かなようだ。しつこい請求が、知識の質の向上をめざすものか、研究者の仕事のしかたに対する批判のたねを得るためか(社会の立場からは有用な批判と情報提供の手間をかけるのに見合う価値のない批判の両方がありうる)、あるいは研究業務をとどこおらせることをねらった攻撃(コンピュータネットワーク犯罪の用語でいう denial-of-service attack)か、判断はむずかしいし、請求する側と請求を迷惑に感じる側では解釈が分かれるだろう。

1月27日の報道によれば、情報公開法に関する紛争を扱うInformation Commissioner's Office (ICO)という役所が、CRUの対応は情報公開法に違反していたが、6か月の時効が過ぎているので訴追しない、と決めたそうだ。[2010-02-26補足: しかし、大学が2月10日に出した文書によれば、ICOは「違反していたように見えると言っただけで、違反と断定してはいない」と言ったそうだ。] ただし、これで当事者がみんな納得したわけではないだろう。大学が作った調査委員会の報告もこれからなので、それを待ってからまた考えたい。

これを機会にいろいろ考えたこともあるが、その一部は、江守正多さんが「日経エコロミー」のコラム [2010-12-11編集, 2014-01-06改訂: しばらくインターネットから消えていたがhttp://www.cger.nies.go.jp/climate/person/emori/nikkei.html で復活された] に書いておられることと共通する。