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「科学革命」、近代科学のはじまり、パラダイムの交代、事典

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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Twitter で、2022年4月2日に、ある人が、Wikipedia 日本語版の [ [ 科学革命] ] という項目の記述について不満をのべていた。

それをきっかけに、いろいろなことを考えた。

つぎのようないろいろな意味でレベルのちがう問題がまざっているが、それぞれが前提とする知識がからみあっているので、どういう順序に書いてもわかりやすくならない。しかし、わすれないように、書きだしておくことにする。

  • Wikipedia のような事典にはどのように書くべきかという問題と、実際に事典に書かれていることがらが正しいかという問題。
  • [ [科学革命] ] (2022-04-13現在) で「バターフィールドの科学革命」とされているものごとについての問題と、「クーンの科学革命」とされているものごとについての問題
  • 思想史としての事実認識の正しさと、そのような概念をつかうたちばでの有用性

なお、わたしは、科学史や思想史ではなく自然科学を専門とする者である。ただし、おそらく科学史にふくまれるだろう内容の授業を担当する予定がある (ひとりの自然科学者による展望であることを明示して講義しようと思っている)。

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まず、(仮称)「バターフィールドの科学革命」と「クーンの科学革命」がひとつの項目の記事にまとめられているという状況は、Wikipedia とはなにか、あるいは、それをふくむ「百科事典」とはなにか、という問題にかかわっていると思った。

もし用語辞典のたぐいならば、「科学革命」という語について項目をたて、その意味を大きく分類してそれぞれを説明する形になるのは、当然のことだろう。それぞれの意味について、代表的な著作物または著者をあげるのはよいことだろう。そして、研究者むけではなく実用むけの事典ならば、代表的な著者をひとりずつにしぼりたくなるだろうし、そのえらびかたは、学説史的な初出ではなく、読んでわかりやすいことを優先するだろう。そう考えると、バターフィールドは (その著作をわたしは読んでいないので、評判からの推測だが) よさそうだと思う。クーンの代表的著作『科学革命の構造』は読書案内としてはよい選択ではないと思うが、もっと適切な著者を思いつかないし、その主題をだれが論じるにしても出てくる名まえがクーンであることはたしかなので、事典でもそうするのが順当なのだろう。(わたしならば『本質的緊張』か『構造以来の道』に誘導する。)

Twitter で「つぶやかれた」不満は、「バターフィールドの科学革命」とされた種類の用例に、Butterfield 1949 よりも早く、Koyré (コイレ または コワレ) の 1930年代の著作があるのに、それを無視するのはまずいだろう、ということだった。人文学 (歴史学、哲学、学問としての文学) の専門家ならば、初出を重視するのは当然なのだろう。 (ただし、Twitter で不満をのべた人は、Koyré が初出だと主張していたわけではなく、もっとまえのものがあるかもしれないと言っていた。)

ただし、初出は、はじめてその用語に接する人にとってわかりやすいとはかぎらない。概念が形成されたころの記述は整理されておらず、つかいかたの模範としては、あとで整理されたもののほうがよいことが多い。(「クーンの科学革命」の概念をはじめて知ろうとする人に Kuhn の『科学革命の構造』 の初版 (英語 1962年) を読めというのがうまくないことは、わたしは自信をもって主張できる。)

Wikipedia は、用語辞典ではなく、ことがらの事典であるはずだ。そのすじをとおすとすれば、Butterfield のいう「科学革命」とKuhn の「科学革命」とは、さす対象にかさなりがないので、別々の項目をたてたうえで、「科学革命 (あいまいさ回避)」という記事をたてて、両項目の記事にむけたリンクをはるべきだと思う。

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Kuhn の科学革命は、科学 (という人間のいとなみ) の中でおこることだ。「パラダイムの交代」といいかえることができる。(しばしば「パラダイム転換」という表現がつかわれるが、「転換」ということばは、実体は同じだが向きがかわったばあいなどにもつかうから、この文脈では、あいまいだと思う。)

ただし、Kuhn がもちだした「パラダイム」という語があまりに多義的であることは、Margaret Masterman をはじめとして多くの人が指摘している。Kuhn は、『科学革命の構造』 日本語版 (1971) および英語第2版 (1970) のために書いた文章では、
この用語をさけて、"disciplinary matrix" (訳語として「専門母型」がつかわれることがある)と "exemplar" (模範例) の2つをつかっていた。

いま、「パラダイム」ということばをつかって、その文脈での意味を説明しないのでは、意図したことがつたわらない。最近わたしはある文章でこのことばをつかってみたのだが、その説明が字数をくいすぎるので、とりやめた。(わたしが「パラダイム」をどうとらえているかは、あとの節でのべたい。)

パラダイムは、ある専門分科に属する人の大多数が共有するものである。考えかたが根本的にちがう複数の集団をふくむ専門分科は、「パラダイムのない」学問だということになる。(クーンのいう) 「科学革命」の進行中は、この意味では「パラダイムのない」状態ということになる。ただし、複数の「パラダイム候補」があって、あらそっているととらえられる。

地学 (のうちで構造地質学と固体地球物理学にわたる分野) で、プレートテクトニクスは、パラダイムになったととらえることができる。これは(クーンのいう) 「科学革命」だろうか。都城 秋穂 (1998) 『科学革命とは何か』 は、それは「科学革命」ではないとした。プレートテクトニクスがパラダイムになるまえは、この分野の大多数が共有するパラダイムはなかったからだ。

パラダイムのない専門分科がパラダイムがある状態に変わるのは、科学 (という人間のいとなみ) の構造にとって、パラダイムの交代よりもさらに重要な変化だろう。これを「科学革命」とよばないとすれば、なんとよんだらよいだろう。政治の革命との対比でいえば、「建国」のようなものだ。しかし、「科学建国」では変だし、「建学」では聞いて「見学」と区別がつかないので、よい用語を思いつかない。

科学がなかったところに科学ができたことは、この (仮称) 「建学」のうちでも大規模なものだといえるが、「クーンの科学革命」にふくまれないことはあきらかだ。

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わたしは Butterfield の著作も Koyré の著作もまだ読んでいないので、ごくおおまかなことしかいえないが、この人たちのいう「科学革命」は、近代科学が成立したことをさしている。ただし、科学に関心がある人は、科学の成立を科学の革命とは言わないと思う。ほかの なにものか に関心があって、その「なにものか」に、科学の成立が、革命をもたらしたということなのだろう。

はずれているかもしれないが、略歴をもとに、推測したことをのべておく。Koyré は思想史の学者なので、人間がもつ知識の構成が「科学」という部分をもつように変わった、ということなのだと思う。Butterfield は政治史もやっている人なので、知識が「科学」をふくむものになったことが、政治をふくむ人間社会のありかたを変えた、ということなのだと思う。もしそうだとすると、Butterfield の科学革命と Koyré の科学革命も、変わった主体がちがうのだから、区別するべきなのだと思う。

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(仮称) 「バターフィールドの科学革命」と「クーンの科学革命」は、同じ語のふたつの意味というよりも、同音異義語というべきかもしれない。ただし、音だけでなく、構成要素まで同じだ。

ちがう概念が同じかたちの語になってしまった理由は、日本語、英語、それぞれの複合語のつくりかたの事情による。

日本語の 名詞+名詞 で複合語をつくると、名詞どうしの関係をしめしていた助詞などがきえてしまう。科学のなかの革命なのか、科学による (なにか別のものにおこる) 革命なのか、区別がつかない。助詞「の」をいれて「科学の革命」とすると、「科学の影響をうけて (たとえば) 政治に生じた大きな変化」を意味する可能性はすくなくなるが、あいまいさはのこっていると思う。

英語では、scientific という形容詞が「science のなかの」という意味にも「science による」という意味にも (また「science ふうの」という意味にも) なりうる。「of science」という表現のばあいは、日本語の「科学の」と同様だろう。

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近代科学の成立のうち、とくに物理と天文の分野にとって、17世紀のヨーロッパで、ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどがかかわった、力学の考えかたの転換が重要であることは、たしかだろう。われわれの知っている科学が、その転換後からつながっているともいえるだろう。それは理論の交代でもあるが、理論、観測、実験などのあいだのかかわりかたの変化が大きいだろう。

しかし、17世紀に達成された科学と、われわれの知っている科学とのあいだにも、重要な変化はあった。それも「革命」ではないのか?

  • 科学者の職業化、科学教育の制度化
  • 科学者集団が共有する価値観がユダヤ教・キリスト教の伝統と無関係になったこと (村上陽一郎のいう「聖俗革命」と同じかどうかわからないが関係はある)
  • 西洋文明圏だけでなく世界の多くの部分が科学の構築に参加するようになったこと (あえて要約すれば「グローバル化」、ただしかならずしも時事用語の「グローバル化」と同じではない)
  • 科学が技術に応用されたこと、技術への応用を意識して科学が推進されるようになったこと

いまある科学の成立は、17世紀から400年にわたってつづいている変化なのか、複数回の「革命」というべきできごとをふくむ段階的な変化なのか?

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パラダイムということばを、わたしはながらく、意味をつきつめないでつかっていた。中山茂さんの1970-80年代の著作に、出典をいちいち意識しないで、影響をうけていたと思う。

2000年に、Kuhn の『構造以来の道』を当時新刊だった英語版で読んだ。その本全体と同じ題名の章で、Kuhn は、科学者は専門分化しており専門家集団はそれぞれ lexicon をもっている。そして、科学革命の前後では lexicon がちがうのだ。という議論をしている。この lexicon はふつう「辞書」と訳されるが「用語体系」といったほうがよいかと思う。むしろ「概念体系」かもしれない。

わたしは、地球物理の教育をうけ、地理学科の教員になり、地質の教育をうけた大学院生を指導することもあった。地球科学のうちでも、専門間で「ことばが通じない」経験、「読みかえれば通じることもある」経験をした。理学と工学、理科系と文科系、学者と実務家のあいだでは、さらに、ことばが通じにくいことがあり、両方のことばを理解できる人は貴重だと思った。そこで Kuhn (2000) のいう lexicon の話はよくわかると思った。

他方、わたしは 1970年代の学生のとき、課外で Popper の哲学を学び、科学の基本は仮説検証だという考えをうけいれた。そこでは、論理学の理屈がつかわれている。科学の法則候補は「すべての A は B である」という形をしている。そこで「これは A であり、B ではない」という「これ」がみつかれば、法則候補は反証される。

これと Kuhn の lexicon の話とをあわせたとき、つぎのような考えにたどりついた。科学者集団が反証のよしあしを議論できるためには、何が A であるか、何が B であるかについて、ほぼ一致した認識がなければならない。【かりに lexicon をパラダイムと同一視してよいとすれば、仮説反証が有効な場は、通常科学の内なのだ。これは対立している Popper主義者と Kuhn 主義者の両方にとって意外なことかもしれないが。】 そして、(数学はともかく) 現実世界の現象をあつかう科学で、A や B が厳密に定義されていることはまずない。科学者集団にくわわる人は、先輩から例題 (exemplar) をしめされて、何が A であるかについての暗黙知を自分のなかに構築し、集団の暗黙知 (の近似物) を共有するのだ。

例題によって学ぶ、ということの例題は、Kuhn の『本質的緊張』 にふくまれた「パラダイム再考」という評論で、子どもが鳥の種類を区別できるようになるまでの話がある。わたしが1990年代に地質学育ちの人からきいた、岩石の種類を判別する実習の話と、よく対応していると思った。

上に「暗黙知」と表現したものは、Kuhn のいう disciplinary matrix であり、専門家集団が共有するいろいろなものをさす。理論かもしれないが、道具かもしれず、道具のつかいかたかもしれない。Fleck の本の副題になっていた「思考様式」という表現がよいかもしれない。「暗黙知」という表現は、Collins & Evans をまねしたものだ。

専門家集団は多重構造をもつ。「階層的」ともいえるが、階層が明確にかぞえられるわけではないので、「フラクタル」のほうが近いと思う。したがってパラダイムもフラクタルな構造をもつ。さまざまな規模のパラダイムの交代 (Kuhn の意味の科学革命) がおこる。

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わたしが最近「パラダイム」ということばをつかおうとしてやめたというのは、「真鍋淑郎さんはひとつのパラダイムをつくった人だ」というようなことを書こうとして、やめたのだった。

いまでは、つぎのように言ったほうがよいと思っている。
「真鍋さんは、気候システム論という専門分野をつくった集団のひとりであり、気候モデルという道具をつくってつかうという研究スタイルの模範例となった。」