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わりざんの「等分除」「包含除」についてのわたしの考え

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも明示しません。】

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算数の わりざん では、「等分除」と「包含除」を区別する必要があるという考えがある。

たとえば、 33 m の ひも を 4 等分すれば、それぞれが 8.25 m になる。33 m のひもから 4 m のひもをきりとっていけば、8 本のひもができて 1 m あまる。この 2 つの操作を区別する必要がある、というのはわかる。

しかし、わりざん という演算がでてくるばあいをすべてこの 2 つに分類するのは不適切だろう。たとえば、長方形の面積と1辺の長さから他の辺の長さを出す計算が、等分除か包含除かを問うのは適切ではないだろう。

「わりざんには等分除と包含除がある」というのはよい。ただし、それは わりざん の 応用の多様性のうちにそういう側面もあるということだ。「わりざんは等分除と包含除の二つに分類される」としてしまうのはまずい。

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わたしは、算数の知識は、数学的概念と、数学的概念が日常生活 (あるいは自然科学、社会科学) にどのように適用されるかの知識と からなっていると思う。日本語でうまい用語を思いつかないので、[2021-02-04 数学と数量的考えかたの教育について考えること (3)] の記事では、英語を借りて「math」と「epi-math」と表現してみた。今回の記事では、この両者があるという認識にたったうえで、おもに math (数学的概念) のほうを論じてみる。

今回は、epi-math のなかみにはふみこまないことにし、つぎのような総論的な考えだけのべる。わたしは算数教育にとって epi-math をおしえることは重要な部分だと思っている。しかし同時に、epi-math は個人ごとや文化圏ごとにちがい、epi-math の普遍的標準はない、と思っている。自分にとっての epi-math の常識を他人が共有していないかもしれないことを、とくに epi-math をおしえる人は、認識している必要があると思う。

【ちかごろ、「epi-math」ということばが、疫学 (epidemiology) にかかわる数学、あるいは 感染症の流行 (epidemic) をあつかう数学、という意味につかわれることがある。わたしの「epi-math」はそれとは関係ない。 】

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【わたしの数学についての議論は、つぎのような背景知識にたつものであることをおことわりしておく。わたしは大学で、物理を主とする自然科学の教育をうけてきた。わたしは大学の数学科でやるような集合や演算の体系をきちんと勉強していない。ただし、1970年代の中学で、集合の考えを重視した教材を開発しつつある教員による、当時の教科書や学習参考書のとおりではない教育をうけた。なお、わたしは 遠山 啓 さんの数学解説書 (岩波新書、ブルーバックスなど) の影響をたしかにうけたし、「水道方式」には賛同したが、遠山さん流の「量の理論」は勉強しないままきた。最近 銀林 浩 (1975) 『量の世界』を読んで、その議論は math ではなく epi-math であると思った ([読書メモ])。】

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数学 (ここでいう math) のわりざんは、数と数から数を得る演算である。2つの数の組を入力とし、1つの数を出力とする「写像」あるいは「関数 (function)」といってもよいだろう。入力となる2つの数の役わりはちがうので、「わられる数」「わる数」と区別しておく。出力となる数は「商」とよぶことにする。

わりざんは、実数の演算と考えたほうが、考えがおちつく。「わりざんは、実数の範囲で、ほぼ閉じている。」と言えるからだ。ここでいう「閉じている」は、入力が実数であれば出力も実数の範囲にあるということだ。「ほぼ」というあいまいな表現をしたが、ここで言いたいのは、「わる数が 0 であるばあいを例外として」ということである。

  • [注] 「閉じている」という表現は、わたしが中学の授業で頻繁に出あって身についてしまったものだ。ただし、(実際に中学の先生がつかった表現かどうか、記憶がたしかでないが) わたしが思いだした表現は、「実数の集合は、わりざんについて、ほぼ閉じている」だった。しかし (いまのわたしは) この「閉じている」は 実数の集合の性質ではなくて わりざん の性質だと思うので、上のように表現を変えた。

この意味での わりざん は、整数の範囲で閉じていない。わられる数、わる数がどちらも整数であっても、商が整数にならないことがある。(分数で表現できるので、有理数の範囲にふくまれる。それは実数にふくまれる。)

しかし、入力も出力も整数の範囲で考えたいことがある。ただし、負の数が出てくると解釈がむずかしくなるので、正の整数にかぎることにする (わられる数 と出力 は 0 でもよい)。商が実数になる わりざん を知っているたちばから再構成すると、商 の値以下であってなるべく大きい整数を「こたえ」とする。副産物として「あまり」がある。これは、「わられる数」から、「わる数」と「こたえ」の積をひいたものである。この演算は、ここでいう「わりざん」そのものではなく、それから派生した別ものである。「あまり が でる わりざん」と呼んでおく。

(あまり が でない ばあいもある、と いわれるかもしれない。わたしは、こたえが整数になるときめれば、あまり は でる のであって、その値が たまたま 0 になることもあるのだ、と いうべきだと思う。水道方式の賛同者として、あまり が 0 である 特殊なばあいよりも、0 で ないのがあたりまえな (たまたま 0 であってもよい) 一般のばあいを基本とみるべきだと思うのだ。)

もうすこし考えてみると、「あまり が でる わりざん」の入力は、整数にかぎることはない。たとえば、0.75 のうちに 0.11 がいくつふくまれるかを知りたくなるかもしれない。「わられる数」と「わる数」は正の実数 (わられる数は 0 でもよい)で「こたえ」が整数であるような「あまり が でる わりざん」を考えることができる。「あまり」は「わられる数」と同じ種類の数になる。

人が数を認識していく順序は まず整数からになるだろうから、わりざんの教育が、まず「あまり が でる わりざん」からになるのは ふつうのことだと思う。しかし、有理数あるいは実数の範囲にひろげた わりざん を知った段階で、そちらが数学の基本演算であり、「あまり が でる わりざん」は派生的なものであるというふうに、考えをあらためてもらうべきなのだろうと思う。

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ここでいう「わりざん」と「あまり が でる わりざん」との区別は、「等分除」と「包含除」の区別と関連はあるが、同じ区別ではない。前者は math の問題だが、後者は epi-math の問題だと思う。

たとえば、「9人を2組にわけると、1組あたりの平均人数は 4.5人だ」 というのは「等分除」の問題に「わりざん」でこたえたものだ。「9人のうちで2人ずつの組をつくると いくつの組ができるか」という問いに「4組半」とこたえたとすれば、これは「包含除」の問題に (「あまり が でる わりざん」 ではなくて) 「わりざん」 でこたえたものだ。包含除の問題は「あまり が でる わりざん」の問題になることがおおいが、いつもそうなるとはかぎらないのだ。[この段落、2022-08-16 追記。]