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「地理総合」に歴史地理学的な教材を。そこに気候はどうはいってくるか?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2019年3月21日、地理教育のシンポジウムに出席した。(このシンポジウムの予告は[2019-02-25の記事]で紹介した。)

「地理総合」の学習指導要領では、あつかう対象がしぼられていない、ということは、このブログのカテゴリー「地教」の記事でのべてきたとおりだ。今年には教科書がつくられはじめるから、そこに何が書きこまれるかが影響をもつだろう。そのほかにも、有用な教材があるという情報がつたわれば役だつかもしれない。

確かなこととして、「地図や地理情報システム(GIS)」を使う能力を身につけることが期待されている。ただし「や」なので、極論すれば、地図だけでもよいことになるかもしれない(と、計算機を使うことを奨励したい人が懸念として述べていた)。また、高校の計算機に関する状況はまちまちだ。パソコン教室があっても地理の授業に番がまわってこないところもある。インターネットが細すぎるところもある。教員が使いたいインターネット上のサイトが青少年に有害なサイトとみなされてアクセスできなかった例もあった (フィルターの設定を変更する権限がある人に理解してもらえれば解決するが)。研究者ならば計算機上のGISでやる作業を、あえて「アナログに」紙でやってみて、紙でも計算機上でも通用する考えかたを教えたほうがよい、という議論もあった。

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シンポジウムの討論のなかで、とくに生徒が自分たちの地域について調べるような題材として、(これまでの高校地理よりも) 歴史地理学的なものの重みをふやすべきだ、というような議論があった。その動機はいくつかあった。

第1に、「地理総合」という科目のねらいは、地理への入門、「地理探究」に進むための基礎、というだけではない。(もしそうならば「地理基礎」とよばれただろう。) 「歴史総合」とならんで、「世界史探究」「日本史探究」にもつながるし、他の教科にもつながるような、基礎的スキルを身につけることが期待されているのだ。

第2に、高校教員のうちで地理を専門とする人はあまり多くない。必修となる「地理総合」を担当する教員のうちには、歴史を専門とし、これまで世界史や日本史を教えてきた人が多くなるだろう。へたをすると名目は「地理総合」でも実質は歴史の授業になってしまうおそれがある。歴史の先生が関心をもってくれて、地理の教育になるような教材を整備していく必要がある。

(上の1節の話題のつづきだが、歴史が専門の教員に地図や地理情報を使えるようになってもらうという課題もある。歴史教科書の出版社が出した長谷川(2018)の本で(わたしの読書メモではくわしく紹介しなかったが) 地図と地理情報に重点がおかれているのはそういう考えによる。)

第3に、防災教育という観点もあった。災害の被害は、あらかじめそなえることによって減らすことができる。すでにそのための教育の努力をしてきた学校もあるが、教科におさまりにくかった。今度の「地理総合」のねらいには、地域の問題解決のためのアクティブ ラーニングがあり、その問題には防災も明示されている。ただし、その教育には、災害のしくみを、災害をおこしうる自然現象(ハザード)と、人間社会側の条件(脆弱性)のくみあわせとして理解することも含まれるべきだ。

地元でおきた災害をあつかう先生もいる。ところが、生徒自身や家族が被害にあった災害の被災地では、生徒のうちに、感情が大きくゆさぶられすぎて授業どころではなくなってしまう人もいる。個別指導ならば生徒それぞれについて調節することもできるだろうが、典型的には40人ぐらいの学級での授業では、生徒のうち少人数でも感情が刺激されすぎるのならば、その教材は、使えない。

むかしの災害ならば、いくらか距離をおいてとらえることができるだろう。もちろん、時代とともに人間社会側の条件は変わっているが、当時のハザードがどんなものかの推定ができていれば、それがもし今の社会でおきたらどんな災害になりうるかを考えることも有意義だろう。(ここからはシンポジウムの議論ではなくわたしの考えだが) 災害への脆弱性を変えるような社会の変化は、土地利用、通信、地方行政などいろいろな面があるが、大きくは近代化のプロセスであり、まさに「歴史総合」の最重要と思われる主題にかかわっている。「歴史総合」の授業であつかわれた日本全国規模や世界規模の変化が、生徒のいる地域にはどうあらわれたかを考える機会にもなるだろう。

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歴史地理学的教材には、地域の自然環境の要素として、気候に関する材料もふくまれるべきだろう。しかし、そこで使えそうなものは、まだあまりそろっていない。

歴史地理学会の雑誌『歴史地理学』で「歴史気候学」の特集が組まれたことはある(2013年)。そこには、近代の気象事業がはじまる前の気候・気象の研究の話題が出てくる。特集号の論文の著者には、科学史、農業気象学、人文地理学を専門とする人もいるが、多くは、気候学を専門とする人だ。 (彼ら自身は、気候学の課題として歴史時代の気候を研究しているとは言うだろうが、歴史気候学者あるいは歴史地理学者と自称することはあまりないと思う。)

この号で「歴史気候学」とされている話題と、ほかの号の歴史地理学の話題とは、あまりかみあわないような気がする。それは、歴史とのかかわりにかぎらず、気候学とそれ以外の地理学との問題関心のずれによるところが大きいと思う。日本の気候学者以外の地理学者は、歩いて調査できる規模の対象を論じることが多い。気候学者は、小規模といっても、いまの気象庁のアメダス地点 (平均間隔17 km)を複数含むような空間規模をあつかうことが多い。(それより小さい規模の「微気候」をあつかう人もいることはいるが。) また、気候学者は、歴史時代の気候をあつかうときには、気候の変化・変動を論じようとすることが多い。変動を議論できるようなデータをとれる地点の空間分布はあまり密ではない。

中国の歴史地理学の状況については、たまたま日本で手にはいった、中国地理学会の近年の研究のレビューのシリーズの歴史地理学の巻(張 偉然ほか 2016)を見た。全8章のうち「歴史○○地理」の形の題名のついた各論の章が6つで (ここから日本語訳して表現するが) ○○は自然、政治、経済、人口、都市、文化だ。そして「歴史自然地理」の章の各論の節は「気候変化」「水系と地形の変遷」「植生と動物の変遷」となっている。分野別に執筆されているので、分野間にどのくらい密接なつきあいがあるのかはよくわからないのだが、気候が歴史地理学の分野のひとつとしてはっきり位置づけられている点で、日本とはバランスがちがうような印象をもった。「気候変化」の重要な成果として、張 徳二 編 (2004) の資料集などがあげられている。

「地理総合」の歴史地理学的な教材のうちで気候をどうあつかったらよいかは、わたしにはまだよくわからないが、考えはじめた段階で思いあたることを書いておく。[2019-03-24の記事]でものべたように、気候の変動・変化を考えることにこだわらず、気候は基本的にいまと同様だと想定しながら、地域内の空間的分布を考えてみるべきかもしれない。ただし、密な空間分布で精密な観測がほしくてもなかなかできないだろうから、生徒にできて有意義なものが言えるような作業 (観測かもしれないし理論的計算かもしれない) をくふうしていくべきなのだろう。また、土地利用や水域の変化にともなってローカルな気候が変化したことをつかめることもあるだろう。空間規模の大きい気候の変化をあつかえる機会は少ないと思うが、むかしの雪や氷の観察記録がなん年もつづいているときには、冬の寒さを現代とくらべてみることが可能だろう。

文献

  • 長谷川 直子 編, 2018: 今こそ学ぼう 地理の基本。山川出版社, 169 pp. ISBN 978-4-634-59201-8. [読書メモ]
  • 歴史地理学会, 2013: 歴史気候学セッション。歴史地理学 55巻5号 (2013年12月号) 。http://hist-geo.jp/img/archive/histricalgeograpy55_5.html
  • 徳二 [Zhang De’er] 主編, 2004: 中国三千年気象記録要集 (全4冊)。南京鳳凰出版社。
  • 偉然 ほか, 2016: 歴史与現代的対接 -- 中国歴史地理学最新研究進展 (中国地理学会系列出版物 16-03)。北京: 商務印書館 (The Commercial Press), 190 pp. ISBN 978-7-100-12429-4.