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地球科学(地学・地理)の用語をめぐって考えること (3) 山本・尾方(2018)論文を読んで

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「地球科学(地学・地理)の用語をめぐって考えること」については、このブログに[(1) 2017-05-21] [(2) 2017-07-04]の記事を書いた。

その後、月刊『地理』に、この主題の連載 (尾方, 2017a; 山本・小林, 2017; 根本, 2017; 尾方 2017b)があった。

また、2018年3月に、山本・尾方 (2018) の論文が出た。発表されたのはオンライン雑誌で、論文は無料公開されている。ここでは、わたしがそれを読んで考えたことを書く。この論文へのコメントといえる部分もあるがそうでない部分もある。論文の論点を知りたいかたは、これにたよらず、論文自体を見ていただきたい。

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この論文では、高校で、現行の学習指導要領のもとで使われている、地理地学 [注]に関する科目の教科書について、著者たちが注目するいくつかの概念が登場するか、登場するならばどのような用語で表現されているかを調べている。そして、(どんな概念をとりあげるべきかの議論もいくらかあるが、おもに) 同じ概念をあらわす用語が不統一である状況を問題にし、次期学習指導要領のもとで2022年度から使われる予定の教科書をつくる際には統一してほしいと主張している。

  • [注] 学習指導要領のもとでの「地理歴史」という教科の「地理A」「地理B」という科目をまとめてこの論文では「地理」、「理科」という教科の「地学基礎」「地学」「科学と人間生活」という科目をまとめて「地学」と呼んでいる。フォントの強調表示(多くのブラウザで斜体)はわたしがつけた。また、論文にはないがわたしの再表現では、この「地理」と「地学」は「教科」(強調表示つき)であるとする。

著者が調べた教科書は、「地理A」6件、「地理B」3件、「地学基礎」5件、「地学」2件、「科学と人間生活」5件である。

論文では、用語の不一致を次の3つの類型にわけている (わたしの再表現で示す。)

  • 1. 教科内の教科書間の不一致 ... 入試などで不利益が生じうる (採点者が正答の同義語を誤答と判断してしまう)。
  • 2. 教科間の不一致 ... 教科間の連携や総合的理解のさまたげ。
  • 3. 学術用語との不一致 ... 学術的知見の理解のさまたげ、大学との連携のさまたげ。

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著者たちもまとめの節で同様なことを述べているが、わたしは、同じ形の語で意味がちがうこと(この論文の表現で「同音異義語」[注]、わたしは仮に「多義語」とする)のほうが、同じ概念をさすのに別の語が使われていること(この論文では「異音同義語」、わたしは「同義語」とする)よりも深刻な問題だと思う。多義語による混乱をなくすためには、その語をどちらかの意味で使うのをやめるような用語の変更が必要だろう。同義語のほうは、同義語であるという認識が共有されていさえすれば混乱は起こらない。

  • [注] この現象は、国語(という教科)で出てくる同音異義語 (たとえば「意義」と「異議」があること) とはちがい、国語の観点では「同じ語の複数の意味」と認識されると思う。それが生じた状況は、別々の専門家集団が考えた概念に日本語の同じ語が使われた場合と、ひとつの専門用語の意味が大きく分岐した場合があると思う。

それにもかかわらず、この論文の議論の重点は同義語におかれている。著者たちの考えをわたしが想像してみると、教育用語の問題には長期にわたってとりくむ必要があるが、早い段階で主張と客観的証拠の提示をあわせた論文を出して同僚たちの注意を呼びおこす必要もある。教科書群から同義語を抽出するには、大きな文脈をおさえたあとは語の形に注目すればよいので、かぎられた作業時間でもできるが、多義語を抽出するには、出現箇所ごとに語の意味を考えなければならないので、作業時間がはかりしれない。そこでまず同義語を扱ったのだろうと思う。

ところで、この論文で同義語あつかいされたもののうちに、わたしならば、ひとつの語の「表記のゆれ」として扱うものが含まれている。たとえば、II節・III節それぞれの第5小節では「地すべり」と「地滑り」とが用語の不統一として扱われているが、わたしは表記のゆれだと思う。(ただし、著者も「地すべり」と「地辷り」(教科書には出てこない文字づかいだが)とは同じ語の表記の変異と見ているようだ。) もっとも、同義語と表記のゆれとの区別を客観的に決めるのはむずかしいと思う。この論文には出てこないが有名な(わたしは高校1年のときから知っている)例として「侵食」と「浸食」がある。意味のかさなりは大きいし、同じ文章中(引用句以外)で両者を区別しながら共存させることは不可能に近いから、わたしは表記のゆれと見るが、意味がちがう別々の語だという立場も理解できる。

同義語のうち、概念は共有されていて、用語だけがちがうのならば、統一もしやすいだろうし、同義語であることを明示することもしやすい。

しかし、用語の不統一として気づかれる問題は、むしろ概念の不統一であることが多いと思う。わたしなりに考えて、次の類型があると思う。

  • 概念がさすものの広がりが不明確であり、専門家のあいだでも認識の個人差が大きい。(例、下記の「氾濫原」)
  • さす対象はだいたい同じだが、概念のなりたちがちがう。(例、海洋の深層循環(所在場所にもとづく概念)と熱塩循環(メカニズムにもとづく概念)。)
  • 古い概念であり、いまの学問的知見の何にあたるのかが明確でない。(例、下記の「古期造山帯」)
  • 新しすぎる概念であり、専門家集団内でも共通理解ができていない。

また、用語問題よりも前に、そもそもその概念を教えるべきか、という問題がある。「知識体系の構成要素として教える」レベルと「教えない」レベルがあり、その中間に、「作業に使う必要上、その場かぎりで導入する」レベルがあると思う。作業用の用語は、がんばって統一する必要はないが、作業用であることを明示する必要がある。

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この論文の「II 教科書記載の比較」と「III 教科書記述の地球科学的検討」のふたつの節は、それぞれ7つの小節を、同じ構成で含んでいる。ここでは、おもに「III」節の議論を参照しながら、小節ごとに、わたしが読んで考えたことを述べていく。

- 4-1 プレートテクトニクス関係 -
論文では、プレート境界の分類を、地学では「収束・発散」、地理では「狭まる・広がる」のように表現していることを不統一としてとりあげ、統一すべきだと論じている。わたしは、両者の対応は一定しているようなので、同意語として明示しておけば統一する必要はないと思う。

論文では、統一の際には地球科学の学術用語である「収束・発散」にあわせるべきだとする。わたしは、「収束・発散」は応用数学のベクトル解析や物理の連続体力学(流体力学をふくむ)の用語でもあるので(気象学に即した説明だが[2016-08-23の記事]参照)、プレート移動速度のベクトル場の数値がわかっていて、それの球面での2次元的発散の値が正のところを「発散」、負のところを「収束」と言うのならばよいのだが、そのような数量のうらづけのない定性的認識にもとづいて使うのはあまり適切でないと感じる。地理ではベクトル場の理解を前提にできないから、むしろ「狭まる・広がる」のほうがよいと思う。ただし、わたしの意見のこの部分はわたし個人の経歴によってできた語感のあらわれにすぎない。地球科学の学術用語としてのプレートの「収束境界・発散境界」の定義がまぎれなく示されれば、それに従うことはできる。

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この節では、上の件と直接関係ない、学問内容的な問題も、短く論じられている。プレートの沈み込み帯でマグマができる(岩石が融解する)原因として、摩擦熱をあげている教科書があるが、それは、いまの学問的知見にてらして、まちがいだ、ということだ。

- 4-2 造山運動・造山帯関係 -
論文のこの節の主要な論点のひとつは、「新期造山帯」「古期造山帯」という用語が、地理の教科書にはねづよく残っているが、学問的に古い概念であり、今の地球科学の学術用語の何に対応するかが不明なので、この用語を持ち出すのはやめるべきだ、ということだ。

わたしも、これはやめてよいと思う。もし山脈ができた時代を区別したいのならば、地質年代用語の「古生代」「中生代」「新生代」を使えばよい。年代がまだ不確かならばそれを正直に述べればよい。しかし、むしろ、しろうとが知りたいのは、その山をつくった地殻内部営力は今も続いているか、終わったものか、だろうと思う。表現は仮のものだが「現在の造山帯」と「過去の造山帯」のような区別があったほうがよいかもしれない。

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関連して、「造山帯」と「変動帯」はちがうのに混同されている場合があることも指摘されている。

「変動帯」はこの論文ではひきあいに出てきただけで、それが何かしっかり述べられていない。わたしはこれが学術用語としてどう定義されているか知らないが、大まかに、 (地質時代の意味での)現在 地殻変動や地震活動が活発なところだと認識している。そのような地域は、土砂災害の頻度が高い、川によって運ばれる砕屑物が多いなどの特徴ももつので、教科書で類型として扱う価値があるだろう。ただし、現在 山脈がつくられているところとは必ずしも一致しないから「造山帯」と同義語ではないだろう。

わたしは、極論と思われるかもしれないが、「変動帯」は残して、「造山帯」「造山運動」という語を使うのをやめたほうがよいと思う。過去に山脈ができた事実やプロセスについて述べる必要はあるが、その現象に特定の名まえをつけなくても「山脈ができた」と言えばよい。そのメカニズムについて、プレートテクトニクスで説明するならば、その場所は「沈み込み帯」「プレート衝突境界」などとすればよく、「造山帯」という用語は必要ないと思う。付加体の形成によって山ができるならばそう述べればよく「造山運動」という用語も必要ないと思う。(これまでの教科書執筆で、固有の専門用語の導入をふくまない項目は軽視されたのかもしれないが、もしそうならばこれからは変えるべきだ。)

- 4-3 地震関係 -
論文に「地震学では、プレート境界付近で発生する逆断層型の地震、内陸の上部地殻で発生するプレート内地震、沈み込む海洋プレートの内部で発生するスラブ内地震に分けることが基本である。」と書かれている。世界にはこれ以外の類型の地震もあると思うが、日本のようなプレート沈み込み帯に位置する弧状列島の付近で生じる地震の類型としてはこれでよいのだろう。論文での著者の論点はこの3つの類型を概念として教えるべきだということで、どんな用語がよいかに至っていないようだ。

学校教育用語としては、「プレート内」と「スラブ内」は、まぎらわしすぎて、そのままでは使えないと思う。わたしが思いつくのは「内陸プレート内」と「海洋プレート内」だが、「内陸プレート」というものがあるわけではない、という欠点もある。

また、日本付近にかぎっても、この3つの類型ですべての地震をつくせるのか、という疑問もある。わたしはその答えを知らないのだが、もし3類型以外も無視できないのならば、むしろ、地震には「プレート境界地震」「内陸地震」と「その他」があるとして、「その他」のうちで海洋プレート内に震源をもつものがあることに注意しておくような説明のほうがよいようにも思う。

- 4-4 平野関係 -
論文のこの節ではいくつもの問題が指摘されている。そのうちには、時代区分としての「洪積世」「沖積世」が「更新世」「完新世」で置きかえられたのに、地理の教科書では「洪積台地」「沖積平野」が使われている、という件がある。

「洪積台地」は使うべきでないという点ではわたしは著者に同意する。「台地」(もし形成年代を示す必要があれば「更新世に形成された台地」)でよいだろう。

「沖積平野」についての判断はむずかしいという点でも同意する。論文では「沖積には (1)地質時代としての意味(地形発達史としての意味)のほか、(2)河川による作用の意味(地形プロセスとしての意味)もある」ということが指摘されている。(「(1)(2)」はわたしが説明のつごうで追加した。)

わたしは、次の論点を指摘したい。

  • 地質時代としての観点で「沖積」を使うのは、(1a) 完新世(約1万1千年前から現在)をさす場合のほかに、(1b) 最終氷期極大期(約2万年前)から現在にいたる時期に堆積が進んだことを述べたいことがある。
  • (3) 地質時代としての意味の拡張として、仮想的に別の時代を現在とした場合にも使えるようにしたいことがある。たとえば、12万年前の人が地形を記述するならば(話を簡単にするために、海水準が今と似た時代を例にあげた)、その時点での「最近約1万年に形成された新しい地層」とそれでできた平野があるはずで、その地層は完新統ではないが、現在の時代に「沖積層」と呼ばれてきたものと似た特徴をもっているだろう。
  • (4) (言及対象はちがうが論理構造としては「造山」の件で述べたのと同じように) 堆積過程が、すでに終わったものと区別して、現在も進行中であることが言いたいことがある。しかし現実には、近代になって、治水工事や土地利用によって堆積過程が抑制されているところが多いだろう。「もし人間活動がなければ進行中だったはずだ」と言いたくなることもあるかもしれないが、それは長くなってもそのように説明するしかないだろう。

この件のひとまずの結論としては、「沖積」ということばは、意味が定まらないので、使わないほうがよいと考える。単に「平野」「低地」ですまない何かを言いたいのならばそれを説明的に述べるべきだと思う。ただし、くりかえし出てくる場合には短い表現がほしくなるだろう。そのとき、作業用の用語であることと作業用の定義を明示して「沖積」を使うことはありうると思う。

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この節のもうひとつの問題として、「氾濫原」ということばの意味の不統一がある。これは学術用語としても専門分野によってちがうようなので、統一は困難かもしれない。川がつくる平野のうちで、扇状地と三角州の中間にある、自然堤防と後背湿地をふくむ地帯に名まえがほしい。それを「氾濫原」と呼ぶことはありうると思うが、それは、本ごと、授業ごとに、ここではそのように呼ぶとことわって使うべき用語だと思う。(わたしは自然堤防と後背湿地をふくむ地帯を「自然堤防地帯」と呼びたいが、もちろんこの用語は使いはじめるときごとに「自然堤防」と関係はあるが別の概念であることをことわらないといけない。)

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この節には、学問内容的問題の指摘もある。扇状地で堆積が進む理由として「勾配がゆるくなるので流速が小さくなるから」というのは、いまの地形学の知見からみて正しい説明ではない。

- 4-5 斜面プロセス関係 -
この節では「地形プロセス学では、山地の斜面で発生する地形変化を、表層崩壊・深層崩壊・地すべりに整理することが基本であり、この分類を踏まえた用法に整理する必要があろう。」と述べられている。このような地形変化は災害のもとになる現象(ハザード)でもあるので、用語は教育・学術だけでなく防災行政とも整合したものであるべきだ。

このうち「地すべり」については、このブログ記事の2節で述べた文字づかいの問題がある。「表層崩壊」については、「土砂崩れ」は学問的には使われないので避けるべきで、「がけ崩れ」(これも文字づかいの問題がある)、 「山崩れ」、「斜面崩壊」の3つの類型が横ならびにあるのだろうと思うが、この論文の記述だけではよくわからない。尾方 (2017a)で論じられているので、そちらを見てからあらためて考えたい。

- 4-6 大気大循環関係 -
大気大循環は地学で教えるが、地理で教える気候の大規模な構造のメカニズムを説明しようとすればそこにもあらわれる。両教科にわたって概念や用語を統一することがのぞましい。ここまではわたしも賛成だ。

しかし、この論文では、「ハドレー循環・ロスビー循環・フェレル循環・極循環」をいずれも重要な用語であり両方の教科であつかうべきだと言っているようだ。わたしはそれには賛成しない。「ハドレー循環」はたしかに重要な概念であり両教科で用語も統一してあつかうべきだと思う。その他については、論述のついでに出てくることはあるかもしれないが、学習しなければならない概念ではなく、したがって用語の統一もかならずしも必要ではないと思う。

ハドレー循環は、大気大循環のうちで熱帯の部分の主役であり、地上の貿易風と呼ばれる東風とも、また雨が赤道付近で多く亜熱帯で少ないこととも関連が深いので、地学だけでなく地理でも扱うべきだと思う。

極付近で下降する南北鉛直循環である「極循環」は、北極まわりでは不明確な現象なので、地学でも地理でも積極的には扱わないほうがよいとわたしは思う。(南極まわりに限ってならば扱ってもよい。)

温帯の南北鉛直循環である「フェレル循環」は、統計をとれば出てくるが、大循環のメカニズムでは派生的なものなので、事実を示す図の中に出てくる名称としてはあってもよいが、学習すべき用語に入れるのは不適切だと思う。

「ロスビー循環」というのは不適切な用語だと思う。もし使うならば「ロスビー型の大気大循環体制」として「ハドレー型の大気大循環体制」と対比するべきだ。むしろ人名を使わずに「温帯低気圧が主となる大気大循環体制」あるいは「偏西風波動が主となる大気大循環体制」と言うべきだと思う。(なお「傾圧不安定が主となる...」はまずい。傾圧不安定は温帯低気圧の発生段階のメカニズムであり、大気大循環のエネルギー南北輸送に大きく寄与するのは発達した温帯低気圧なので。)

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この節のもうひとつの論点として、地学地理で同じものがちがう用語で呼ばれているという問題がある。

その例として「熱帯収束帯」と「赤道低圧帯」があげられている。わたしはこの例にかぎって考えてみた。学術用語として、両者はだいたい同じ対象をさすが、くわしく考えると、どちらの用語の意味も専門家のあいだで一定しておらず、両者を同意語とみなしてよいかどうか、よくわからない。

「熱帯収束帯」(ITCZ = Intertropical Convergence Zone)は、かつて(1950-70年代ごろ)は、赤道にそって地球をひとまわりしているものと考えられることが多かった。しかし最近は、衛星観測の月平均くらいで見て背の高い雲が出やすいところ(下層の風が収束しているところでもある)が明確に東西に細長い帯状になっている海上にかぎってこう呼ぶことが多い。陸上でも下層大気の収束が起こっている場所はあるのだが、帯状とはいいがたいことや、緯度が海上のITCZから大きくはずれることが多いので、ITCZとは言わないことが多くなった。熱帯モンスーンの内部構造として陸上の大気下層にできる低圧部(収束帯でもある)を「モンスーントラフ」(monsoon trough)という。かつて(1970年代ごろ)の気候学の文献ではモンスーントラフをITCZがシフトしたものとみることが多かったが、最近では少なくなった。

「赤道低圧帯」は、東西全経度平均してしまった気圧の分布の説明では使ってもよいと思うが、地理的分布として見る場合に地球をひとまわりしているものと考えるべきではないだろう。たとえばモンスーントラフが発達している季節・経度帯では、気圧の極小はそこにあって、赤道上にはない。

わたしの暫定的結論としては、固有名詞的なものではなく普通名詞として、風が収束していることに注目したならば「収束帯」、気圧が低いことに注目したならば「低圧部」というのがよいと思う。「熱帯収束帯」やITCZということばを固有名詞的に使うことは必須ではないが、使うとすれば、海上、しかも背の高い雲が東西の帯状に分布する海域に限るべきだ。

- 4-7 気候区分関係 -
論文のIII-7節で、わたしが2016年に出した日本気象学会発表予稿([2016-07-08の記事]参照)の論点をとりあげていただいている。

わたしは、その予稿および[2016-11-01の記事]で述べたように、日本の地理教育はケッペンの気候区分にこだわりすぎてきたと思う。では今後どうしたらよいかの考えはまだまとまっていないが、ひとつの案としては、[2018-05-31]の記事で述べたように、ケッペンの体系のうち大分類(A, B, C, D, E)だけを使うことが考えられる。

ケッペンの気候区分の便利なところは、各地点について、平年値の月平均気温と月降水量という12個の数値が与えられれば、機械的に(一定のアルゴリズムによって)各地点の気候型が決まることだ。その反面となる欠点は、気候区分は植生の特徴と対応することを想定してつくられているにもかかわらず、対応しないところも区分内の minority としては存在し、それが見のがされがちになることだ。

日本の地理教育にかかわる人に見のがされていない minority の例として、北陸の多くの地点が「地中海性気候」と分類される、ということがある。ケッペンの「Cs」型は本来「温暖 夏季少雨気候」であり、北陸も、降水量の季節変化のうちで極小が夏にあるので、その趣旨には合っている。ところが、別名として「地中海性」と名づけられ、オリーブが栽培されるところの分布などと関連づけられた。そこから連想される景観と北陸の景観がちがうので、奇妙な感じがするのだ。わたしはつぎのように考える。地中海沿岸でも北陸でも夏に降水が少ないことを認識するのはよいことだが、両者を同じ分類にまとめることには積極的意味がない。ケッペンのCs型の内容は、高校生がみんな学習する必要があるものではなく、発展的学習としてケッペンの気候区分に深入りした生徒だけが(奇妙な感じもこみで)経験すればよいことだと思う。

大分類だけを教えるとしても、minority に出あうことはあるだろう。学校教育では、あらかじめ minority がありうることを理解してもらったうえで、例題として示すところは majority から選び、調べ学習で minority に出あったらそのことをコメントするのがよいか、と思う。

文献

  • 根本 泰雄, 2017: 学校教育での地理・地学用語の整理を目指して。地理, 62(10): 87-93.
  • 尾方 隆幸, 2017a: 学校教育でみかける地球惑星科学用語の不思議。地理, 62(8): 91-95.
  • 尾方 隆幸, 2017b: 地球惑星科学教育の未来。地理: 62(11), 104-108.
  • 山本 政一郎, 小林 則彦, 2017: 学校現場で混乱が生じている用語。地理, 62(9): 94-99.
  • 山本 政一郎, 尾方 隆幸, 2018: 高等学校の地理教育・地学教育における教科書用語の問題点 -- 用語問題の類型化と学術的整合性。E-journal GEO (日本地理学会), 13: 68-83. https://doi.org/10.4157/ejgeo.13.68 [雑誌の名まえは英語だが、論文は日本語で書かれている。]