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学術政策について -- 「選択と集中」の発想の転換を

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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日本の今の学術政策 (「科学技術政策」とも重なるのだが文科系の学問も含むのでこの表現にしておく)について、大部分の学者が不満をもっていると言ってよいと思う。もちろん、国の予算には限りがあり、なんでも学者の望みどおりになるはずはない。しかし、現場の不満を減らすことが、社会全体にとっての価値判断から見ても、改善になることもあるだろう。

わたしは、現在は国立研究開発法人に雇われ、国立大学の非常勤講師もしているという立場にある。その立場からの判断もまざるかもしれないが、なるべく社会全体にとって適切な国費・公費の使いかたという観点に立つように努力して、意見を述べたいと思う。

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要点を述べれば、基盤的経費(国立大学や国立研究開発法人の場合は運営費交付金)と競争的資金の間の配分が、最近は競争的資金に偏りすぎており、今後は競争的資金を減らしてでも基盤的経費をふやすべきだ、ということになる。

これと重なりのあることだが、「選択と集中」がよいことだとされてきたことに見なおしが必要だ。この標語を広い意味でとらえて、国の支出のうち義務的経費以外のものは政策の観点から重要なところに多く配分するべきだ、ということならば、原則としてはもっともだ。しかし、学術研究について、国が高い価値を認める成果をあげる見こみのある少数の研究者をトップダウン[注1]選んで集中的に研究費をつけるべきだ、ということならば、それではダメである[注2]と言えると思う。「選択と集中」をかかげるのをやめるか、あるいは意識してその意味をつけかえることが必要だ。

  • [注1] ここでは「専門分野を構成する多数の人による集団的評価でなく国が選んだ少数の人の目ききによって」というような意味。
  • [注2 (2016-11-13追加)] 現場で使える基盤的経費が減っているうえに研究費のつけかたが「選択と集中」だと、選択された研究者は高い研究成果を要求されるうえに事務書類や会議にも時間をとられて疲弊し、選択されなかった研究者は資源不足で疲弊する。いわば「一将功ならずして万骨枯る」になってしまっていると思う。

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学術研究には、応用との関係が明確でないものも多い。これを「基礎研究」と呼んでおこう。(「基礎研究」は多少とも応用を意識できるものであって、そうでない「純粋学術研究」もあるという考えもあるが、ひとまず区別しないでおく。)

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この記事ではおもに基礎研究を論じたいのだが、さきに応用研究について述べておく。

研究開発資金さえつければ実用化できそうな見通しがある課題については、それを選んで集中的に資金をつけることが正当化できるかもしれない。

しかし、実用化が産業化ということならば、民間企業の自発的取り組みにまかせ、国の役割は標準の制定などに限ってもよいこともあるだろう。

産業にはなりにくいが行政の現場に需要がある場合は、その行政官庁が研究開発予算を確保して、大学などの研究者に研究費をつけることも、官庁が目標設定をして民間企業に研究開発を請け負わせることもできるようにするのがよいと思う。まだそういう制度をもたない官庁に制度をつくることが必要かもしれない。また、課題によっては、複数の官庁の職掌にかかわるものもあるし、もし研究開発が成功すると官庁の役割が変わってしまうものもある。そういったものについては、内閣のレベルで調整して、複数の官庁が共同で、研究開発を進めるとともに、実用化される際の業務再編成を準備するような態勢をつくることが必要だろう。

ここで述べたような応用研究を推進する政策は、どちらかといえば応用対象の政策(産業政策とか、環境政策とか)の従属物と考えられる。ここからさき、「学術政策」から、このようなものをはずして考えることにする。

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基礎研究のうちどれが社会の役にたつ応用につながるかを予測することは、だれにとってもむずかしい。そのうちどれかを選択して集中して研究費をつけることは、選択されなかった研究が結果として役にたつ応用を生み出す可能性をせばめてしまうことになるだろう。「ばらまき」と批判されても、同僚評価によってある水準に達していると認められた多数の研究計画に、あまり大きくない額の研究費を分配するほうが、すぐれた政策だと思う。

基礎研究の課題のうちには、大きな研究費がつかないと実現できないものもある。そのような課題の提案者どうしが限られた予算をめぐって競争することもあるだろう。そこで(同僚評価で合格のもののうちで)どれを選んで推進するかは、ほぼ偶然に決まってしまうだろうが、それはしかたがないことだと思う。(基礎研究の段階でも資源・環境問題などの懸念がある場合は、それを優先的判断基準にするべきだろう。)

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選択と集中」と関連した動きとして、競争的資金でも、政策的に推進される研究でも、5年くらいの期限つきの事業が多くなっている。事業の期間が終わったあと続きや発展があるかどうかは、期限が近づいてから決まる。

研究事業だけを見れば、成果をあげれば続きがあるが、失敗すればおしまい、という扱いも、もっともだ。

しかし、研究は人がやるものだ。研究代表者だけならば、信賞必罰型の待遇もありうるかもしれない。しかし、研究事業には、研究労働者が必要だ。労働力は予算をつければ沸いてきて期限が終わればあとくされなく消えてくれるようなものではない。研究事業が始まるまでに知識や技能を修得している人が求められる。研究事業が失敗と評価されて打ち切られた場合、研究代表者には失敗の責任があるかもしれないが、その下で働いている労働者にとっては、本人はまじめに仕事をしているのに罰を受けることになる。このような体制では、すぐれた知識や技能をもつ研究労働者が仕事を続けることがむずかしく、さらに、研究労働者の適任者がその職種を選ぶことが減ってくるだろう。

研究労働者のうちでも、技能が民間企業でも通用し、両方向の転職が簡単にできるような職種については、あまり心配はないかもしれない。

しかし、それがむずかしい職種については、研究労働者を雇う人件費を、期限つきの研究事業経費ではなく、どこかの法人の基盤的経費としてつけて、雇用の継続性を確保するべきだと思う。

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基盤的経費が削られて競争的資金がふえていることによって、とくに大学の各教員が、学生(大学院生を含む)の教育に必要なものでさえ競争的資金を頼らなければならなくなり、次年度の予算規模があらかじめ予想できない状況の中で仕事の計画をたてなければならないという、困難な研究室経営をせまられている。

この件に関する限り、競争的資金(たとえば科学研究費)の総額を減らしてでも、基盤的経費をふやして、各教員が今後数年間の展望をもった経営をできるようにすることが急務と思う。

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競争的資金をもらうためには、研究者(大学教員を含む)は、申請書類を整えなければならない。研究成果が出れば学術論文だけでなく報告書を書かなければならない。そして、申請を選考するためにも、成果を評価するためにも、同僚研究者が動員される。近ごろ、研究者が忙しくなって研究自体に使える時間が減っているが、その原因のひとつは、学術予算の中で競争的資金が大きくなりすぎているからではないか?

資金自体についてみても、文部科学省の学術研究に向けた予算は全体としては少しながらふえているそうだが、現場の感覚では減っているというのは、資金の多くが競争的であることからくる摩擦損失のようなものがふえすぎているのではないか?

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学術知識は、各専門の同僚集団が、知識の枠組みを共有しながら、おたがいの研究成果を批判しあうことによって、品質が確保される。同僚集団は、同じ専門の研究者どうしがおたがいに批判的であるとともに協力的であることによって成り立っている。

ところが、競争的研究資金は、一定の予算を研究者間で奪い合うものになり、ある研究者にとっての得が同僚研究者にとっての損になってしまう。学術予算のうちでこのようなものの重みが大きくなりすぎることは、学術知識をつくるしくみの根本をそこなうことになりかねない。

研究費のつけかたは、学者どうしの(相互批判を含みながらの)協力を促進するものであるべきだ。

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学術研究や高等教育の予算全体に限りがあり、しかも新しい分野も必要になるなかで、今ある研究室を全部存続させるのは無理で、(これまで言われているのとはだいぶちがう)ある意味での「選択と集中」が必要になるだろう。

その際には、まず、貴重な知見をもつ専門分科の専門家養成と資料保全がとぎれないように、それぞれの専門分科の全国センター的機能を引き受ける機関に、(競争的資金ではなく)基盤的経費を、(時限ではなく)長期継続して保証してほしいと思う。

ここでいう全国センター的機能には、他の機関に属してその専門分科の研究にたずさわる人を支援することや、外国に対して日本の窓口になることを含む。そこには、単なる研究者ではなく、世話役的機能を引き受ける学者を配置する必要がある。