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日本学術会議の情報学シンポジウム(2015-03-09)、Steve Fuller氏の未来論ほか

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2015年3月9日、日本学術会議の講堂で「情報学シンポジウム」があった。これは学術会議第3部の情報学委員会が主催するもので、この形になって第8回だそうだ。(それよりも前から学術会議の情報学シンポジウムというものはあったのだが、それは発表を公募する学会大会のようなものだった。今のものは委員会が企画してゲストを呼んでメンバーとともに議論するものだ。) この回のプログラムは http://www-higashi.ist.osaka-u.ac.jp/scj/http://www.tkl.iis.u-tokyo.ac.jp/scj/ にあり、どちらも同じ内容らしいが、どちらも情報学委員会のホームページであって、今回のシンポジウムの話題が頭に置かれているのは暫定的にちがいない。

わたしはこのシンポジウムには途中から出席した。喜連川 優 (きつれがわ まさる)情報学委員長(国立情報学研究所所長)による委員会の報告、文部科学省の榎本 剛(えのもと つよし)参事官の講演、IBM ResearchのBrent Halpern氏の講演は聞いていない。

わたしのめあては(SRMGI = Solar Radiation Management Governance Initiativeのメンバーでもあった) Jason Blackstock氏の講演だったのだが、彼はインフルエンザにかかって日本に来ることができなかったそうで、彼がつとめるUniversity College LondonのDepartment of Science, Technology, Engineering and Public Policy (STEaPP)のメンバーでもある(本拠は東京大学公共政策大学院の)鎗目 雅(やりめ まさる)氏によるBlackstock氏の材料を使った講演と、科学技術政策を専門とする有本 建男 政策大学院大学教授による補足的な講演があった。話題はおもに「科学技術イノベーション」と「公共政策」とにまたがる、世界、とくにヨーロッパで進められている活動のレビューだった。Future Earthの文脈でも話題になっているtransdisciplinary researchあるいはco-designというキーワードも出てきた。SRMGIもそれに含まれるかもしれないが、直接の言及はなかった。

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Steve Fuller氏の講演は、当日示された題名によれば、Homo Futura – A Roadmap for the Fork on the Road for Humanity というものだった。(著者のウェブサイトの http://www2.warwick.ac.uk/fac/soc/sociology/staff/academicstaff/sfuller/media/audio の(2015-03-11現在) 100番に、音声ファイルと、スクリーンで示された文章のファイルが置かれている。わたしは文章のファイルだけダウンロードして見なおしている。) この内容は、この日のほかの話題からは「ぶっとんで」いたと思う。

ただし、他の人の話に、Kurzweil氏の "singularity" というキーワードが、断片的に出てきた。わたしはその内容を勉強していないが、暫定的に「情報技術の進展を人間が制御できなくなること」だろうと思っている。シンポジウム主催者がFuller氏を呼んだ理由を聞いていないが、たぶんこのsingularityに関連する文脈で、Fuller氏の最近の著書 Humanity 2.0 (わたしはまだ見ていない)に注目したのだろう。(科学技術社会論者のFuller氏に知識生産の体制を論じてもらおうとしたのではないようだ。学術会議全体の企画でこの人を呼ぶならば依頼内容はそちらになっただろうと思うのだが。)

Fuller氏の話の主題は、人類はこれからどうなるか、また、人間をどう変えていくことをめざして科学技術の開発を進めたらいいだろうか、ということだった。その際に彼は、人間も生物であるという立場と、人間がもつ他の生物と違った特性を重視する立場とを区別して考える。前者ならば、病気を減らすなどの、人体の健康をよりよくすることが重要になるだろう。しかし後者ならば、生物としての人体はどうでもよく、人間の思考が(例として言っているのだと思うが)シリコンでできた情報媒体の上で続けられることのほうが望ましいかもしれないのだ。参考例として、1900年ごろ、おもな乗り物は馬であった。そこから、馬の品種改良と、乗り物という機能をもつ新しいもの(自動車)の発明という道があり、勝ったのは後者だった。そして、すでに現代人の多くが、人と顔を合わせるよりもむしろインターネット経由のコミュニケーションに時間を使っていて、ネットのむこうに人がいるか人工知能がいるかは重要なちがいでなくなっている。Fuller氏は、人類の将来についてはまだ決めかねているようではあるが、どちらかというと人体とは別の形で思考が生き続けるほうの道、あるいは両方の道の折衷であるサイボーグ的なもののほうがありそうだと思っているらしい。

今回直接には話題にならなかったし、会場にいた人の大部分は知らなかっただろうと思うが、Fuller氏はIntelligent Design説を支持する議論をしたことがある[Fuller氏の2008年の本Dissent over Descentに対するわたしの2014年のメモ]。今回の話でも、人間の他の生物との類似性よりも違いのほうを強調するところは、Darwin型進化論よりもID説のほうに親しいところがあるように思う。人類の次の段階(それが生物ではないとしても)への進化のようなことを考えるところはID説とは違うだろうと思うが、Dissent over Descentに出てきた、人類が設計者の役割の一部を代行するのだという考えでつながるのかもしれない。

Dissent over Descentで(おそらく他のところでも) U.S. National Academy of SciencesやRoyal Societyなどのestablishmentが学術政策を決めているような体制は破壊すべきだと論じたFuller氏ならば、日本学術会議や総合科学技術イノベーション会議も許せないはずなのだが、講演中にはそれをにおわせるような発言はなかった。

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あとのパネル討論は、日本国の「総合科学技術イノベーション会議(CSTI)」(「総合科学技術会議」から変更された)で原案づくりが進んでいる、2016年から5年間の「第5期科学技術基本計画」の中で、情報科学技術はどのように位置づけられようとしているか、また各パネルメンバーはそれをどのように位置づけてもらいたいか、という、行政的には「中期」だが人類文明からみればごく短期の、情報科学技術政策としてみれば総論的だが哲学的問題に比べれば即物的な話だった。

イノベーションということばはいろいろな意味がある。Blackstock氏・鎗目氏だけでなくおおぜいの講演者のプレゼンテーションの中にGrand Challengesということばでまとめられる問題群があり、そのうちにはsustainabilityもあった。わたしは、人類社会を持続可能にしていくために生産・消費を含めた社会のしくみをつくりかえていくことが、日本社会のイノベーションの重要な部分になるべきだと思う。しかし、Blackstock氏・鎗目氏は別として、パネル討論のどの講演者もそのようにとらえているとは思えなかった。(本人はそれを進めるべきだと思っているが、それは科学技術基本計画でいうイノベーションとは別だと考えている、という可能性もあるが。)

むしろ、資本主義経済をさらに成長させようとする自民党政権のもとで(民主党政権だったとしても大差ないかもしれないが)、イノベーションというのは、資本主義の大きな枠組みは変えないまま、その中で、これまでになかった種類の財・サービスを持ちこむことによって市場のscrap and buildを起こし、勝者・敗者が生じ、勝者のところに富が集積することになるが、ともかく経済規模が大きくなればよいのだ、というように認識されているのではないかと思う(この表現はそういう認識が嫌いなわたしによるひやかしを含んでいるが)。

情報技術、とくに、いわゆるビッグデータの動きは(この表現が適切とは思えないことはたなあげにすれば)、確かに財・サービスを変容させると思う。しかし、たとえ個人情報保護をしっかりやったうえでその問題のないデータをだれでもアクセスする権利をもつオープンデータとしたとしても、現実にデータを扱う能力は平等でない。それを使って得ができるのは行政と大企業であり、庶民にとっては(もし自分では活用できない自分に関するデータを行政や大企業に「活用」されることが損でないとしても)たいした得にならないのではないか、したがって情報技術は社会の格差を拡大させるのではないか、という心配をする人は、わたしに限らず、今の日本社会にはかなりいるだろうと思う。

しかし、この日はそんな話題は出なかった。パネラーの顔ぶれを見れば、CSTIの議員として出席した中西宏明氏は日立製作所の経営陣の一員である(そのことは明示されており講演でも日立の立場の発言もあった)ほか、研究資金提供機関である科学技術振興機構の理事長の中村道治氏は日立、学術会議として基本計画に対する意見をまとめた委員会を代表して出席した土井美和子氏は東芝で、それぞれ研究開発とその部門の管理職をしてきた経歴がある。おそらく大企業以外の主体に対する悪意はなく無意識でだったと思うが、大企業(と、ベンチャー企業のうち運よく成功した者)にとっていいことが社会にとっていいことであるような価値観による議論になっていなかっただろうか。

パネル討論中の具体的な問題で記憶に残ったのは、まず、科学技術基本計画の中での情報技術の位置づけだった。過去にはひとつの重点分野とされたこともあったが、現行の第4期では重点が「ライフイノベーション」と「グリーンイノベーション」にしぼられたため情報技術のかげが薄くなってしまった。第5期ではもう少し強調されることになりそうだ。ただし、単純に分野のひとつに数えるのではなく、むしろ、他の全部の分野を支える基盤として位置づけることがすでに考えられているらしく、パネラーもそれが望ましいとしているようだった。

この議論についてはわたしももっともだと思う。ただし、科学技術行政の指針として使われる場合には注意が必要と思うことがある。それは、将来(たとえば20年後)の社会基盤になる可能性がある情報技術の先端的研究と、他分野の研究を今からの5年間に進めるための基盤として使える情報技術とは一致しないということだ。どちらも情報技術ではあるが、前者は情報技術の研究として予算をつけ、後者は他分野の科学技術研究として予算をつけたうえで既存の技術による財やサービスを使う(多くの場合はすでに商品となっているものを購入する)必要があるだろう。前者の研究の過程で他分野の人に試験的利用者になってもらうことはあるだろうが、それは他分野の振興にとっては副次的なものになるだろう。この日は、情報技術を使いたい他分野の立場から発言する人はいなかったので、こういう論点は出なかった。

また、基本計画の案では、従来よりももう少し「人材育成」に重点が置かれるらしい。これもわたしも望ましい動きだと思う。しかし、わたしの見た限りでそれは「若手研究者」の問題とされていた。若手でなくなった人はどうなるのか。しかも、科学技術行政での若手人材育成の話題は、研究リーダーになる少数の人を発掘して育てることばかりに注目しがちだ。しかし、リーダーの下で働く人の数は将来のリーダー候補よりも多いだろうし、リーダー候補でも結果としてリーダーになりそこなう人もいるだろう。吉岡 斉(1987)『科学革命の政治学[読書メモ]のいうように、科学技術研究を進めるシステムには、物質・エネルギー代謝とともに人の代謝が必要だ。研究プロジェクトで働く人には、研究リーダーになれなかった場合の次の進路が必要だ。もしかすると、情報科学技術の基礎を幅広くしっかり習得した人ならば、中年で研究者あるいは研究現場の労働者としての職を失っても、応用現場の技術労働者に転ずるつもりがあれば、失業したり貧乏に苦しんだりする心配は少ないのかもしれない。しかし、情報科学技術の特定の応用局面に特化してしまう人もいるだろう。結果としてその局面の設定が社会の求めるものとずれていることがわかったり競争相手の技術に負けてしまったりした場合に、そういう人が行き場を失う心配は、かなり大きいのではないだろうか。