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授業レポートや論文での他人の著作の盗用・いわゆる「コピペ」について

ある大学のある教員が指導して博士号をとった人たちの博士論文に、他人が書いた文章がほぼそのまま出典を明示せずに含まれていた、ということが報じられ、議論のまとになった。わたしは日本語圏で話題になった件について内容に立ち入って見ていないが、英語圏で話題になった(背景はともかく現象としては)同様な件について、批判者による論評を読んで考えたことを思い出した。ここ1か月ほどの日本語圏での議論には、どういう行為がどういう規範に違反しているかについて混乱しているものもあった。混乱の背景には、各人が自分が経験した人間集団の規範を社会全体の規範であるかのように思いこみがちであることがあると思う。混乱を解消しようとする発言も見られるのだが、まだ充分とは思えないので、わたしなりに分類整理を試みたい。分類すること自体にこだわりすぎないようにも注意したいと思う。

本論にはいる前に、よく使われる用語についてのわたしの考えを述べておきたい。

コピペ」は、わたしが学生だった1970-80年代にはなかったことばだと思う。パソコン上で文書の部分を複製する操作が「copy」と「paste」の2動作として記述されることが多くなってできたことばだろう。ともかくこの用語は、他の文書から文章や図をまるうつしにすることをさしているだろう。もとのとおりでなくても、複製してから加工したことが明らかな場合は含まれるだろう。この用語を使うのは論じられる行為を悪いこととして指摘する場合が多いが、その場合に悪いのは複製すること自体ではなく、何かの規範に違反した複製行為であるはずだ。多くの場合は、出典を明示した「引用」(この用語は次に検討する)ならばよいのだが、出典を書かず、複製した人自身の創作であるかのような印象を与えるのが悪いとされているのだ。わたしは今後、このような行為を「出所表示をしない複製」のように表現したい。(わたしの用語感覚で「複製」よりも「コピー」のほうが先に出てくる場合はそれを使ってしまうことがあるが、両者の基本的意味は同じだ。) 「盗用」というのがふさわしい場合もあるが、こちらの表現は違法であるという含みがあるので、違法であることが明確な場合に限って使うことにしたい。

引用」ということばにはいくつかの違った意味の広がりがある。他の著作物(原則的には自分の過去の著作物も含む)を参照することは共通だ。ひとつの意味(英語ではquotation, citationの両方がありうるが)は、他の著作物の部分を自分の著作物中に複製することだ。ただし、「部分」がどの程度まで許されるかは、著作権法の規定はあるものの大まかであり、これまでの争いの結果、判例によって決まってきているのだと思う。引用の範囲をはずれるものは「(部分)複製」と呼ぶのが適切だろう。また、引用では出所を明示することが規範となっている。また、原文を変えないのが原則であり、省略や加筆などの改変をする場合は改変部分を明示することが規範となっている(ただし改変をどの程度ていねいに明示することを期待されるかは出版物の性格や専門分野によって違う)。他方、引用することについて引用される著作物の著作権者あるいは原著者の了解を得ることや、引用する意思を伝えることは、義務とはされていない。

無断引用」という表現が見られることがあり、悪いことであるという含みで使われているようだが、「無断」という用語は、すなおにとらえれば「引用されるものの著作権者と連絡をとらない」という意味であると思われ、それが「引用」として正当である限りは悪いことではないので、この表現は不適切だ。わたしは「出所表示をしない」という意味で「無断」を使ってしまったことがあった。「無断」ということばはこういう意味にもなりうると思うのだが、誤解を招くので避けるべきだ。また、「出所を明示しない引用」はありえなくはないが、多くの場合、引用の規範に反する行為になるので、さきほど述べたように「出所を明示しない複製」として論じるべきだと思う。(これをもう少し短く表現したいと思うことはあるが、「コピペ」は採用したくないので、もう少し考えたい。)

「引用」のもうひとつの意味(英語ではcitation)は、他の著作物を、複製するかどうかにはかかわらず、参考文献としてあげることだ。こちらについては「参照」(reference)でも同じ意味になることもある。英語では(理科系の学術論文についての論評で見たかぎりでは)、参照される対象をreference(s)といい、それを参照する行為(本文または図表のcaptionで言及することとreference(s)のリストに入れることが組になる)をcitationということが多いようだ。ここで参照される著作物の著者名が明示されることが、学者の業績評価で「論文の著者になる」ことが重視されることにつながっている。

盗用」あるいは「盗作」は、法律の規範に違反する場合をさすべき用語だろう。まず考えるべきなのは著作権だろう。文書の文章や図を、引用として許される範囲を越えて、著作権者の許諾を得ないで複製することは違法となる。(ただし、「許諾を得ている」というのには、著作権者があらかじめ許諾条件を示していて、それにあてはまる場合も含まれる。) 出所を明示しない複製は、著作権者がそのような形でもよいとあらかじめ許諾しているか、著作権の期間が終わっている場合は合法だが、そのほか多くの場合は違法となるだろう。著作権法は基本的に表現を保護するものであり、アイディア(あまり適切な語ではないと思うがひとまず日本語圏での慣用の意味でこのことばを使っておく)を保護するものではないので、アイディアをまねしていても表現が大きく違えば著作権法違反ではないこともある。どのくらい違えばよいかは単純には言えず、判例によって決まってきたのだと思う。なお、知的財産権のうちには、特許など、アイディアを保護するのが主眼のものもある。

さて、ここから本論。「出所を明示しない複製」あるいは「盗用」に対して、さまざまな批判がされているが、それは、何に対する価値判断をしているのかによって、次のように分けて考えるべきだと思う。

  • 社会一般の規範(法律、そのほか)に従っているか。
  • 社会の中の特定の集団(学術論文ならば学者の共同体)の規範に従っているか。
  • 文書が作られる目的に合っているか。

出版物やウェブ公開物一般について論じるならば、論点はまず、著作権法などの法律に合っているかであり、条文だけでわからない場合は判例(むしろ、これまでの判例を総合した法理)によることになるだろう。法律で決まらないところは社会通念によって判断することもあるだろう。ただし、社会通念はいつも正しいわけではなく、人権や人類全体の幸福などの社会がめざすべき理念に反する場合は、通念のほうを変えていくべきだろう。

授業の学生によるレポートは、教員が読むが、ふつうは公開されるものではない。ここにも著作権法が適用されるべきことはあるが、その違反をきびしく問うかどうかは、教員の裁量によるところが大きいと思う。むしろ重要なのは、レポートの目的だ。多くの場合それは、学生が授業の到達目標である知識や能力を身につけたかを、教員が評価することだろう。そこでは、学生自身の思考や作業の成果が示されることが期待されている。出所明示であっても他の人の著作の引用ばかりでよいレポートとされることは(出題の趣旨によるが)少ないだろう。出所を明示しない複製がまざることは、まちがった評価をもたらすことになるので、ぜひ避けてほしい。そこで、そのような行為を制裁するルールがつくられることがあるし、たとえ明示されたルールがなくてもそのレポートを無効とすることは正当だと言えると思う。とくに、ある学生のレポートをその人の了解を得て他の学生がコピーすることは、著作権法違反ではないが、成績評価という目的から見て悪いことだ。(複数の学生が相談して答えることを教員が奨励する場合はその限りではないが、その場合は相談の過程も述べるように出題をくふうしたほうがよさそうだ。【授業担当教員として、軽くだが本気で考えている。相談したあいての個人を同定できる情報を書かせてよいかどうか悩む。】)

学術論文や学術書は、出版されるものなので、著作権法はきびしく適用される。

それに加えて、学問は先人の仕事に基づいて新たな知見をつけ加えたり先人の知見を批判したりするものなので、先人のアイディアを尊重する意味と、先人と自分の主張の区別を明確にする意味で、先人の著作をきちんと引用・参照することを期待されることが多い。ただし「きちんと」の意味は、それぞれの専門分野や、それぞれの出版物が想定している読者層によって、大きく違う。論文の背景となる学問の状況、つけ加えや批判の対象となる先人の業績などについて、重要な著作の文章を明示的に引用して論じることを期待する専門分野(人文学・社会科学に多いようだ)もあるが、序論は必要最小限でよく、わざわざ文献を引用・参照しなくても同時代の同分野の読者が主題を認識できるならばそれでよいとする専門分野(理学・工学に多いようだ)もある。ともかく、先人の仕事を自分の仕事のように述べることは、著作権法に違反するような表現の盗用でなくても、学術共同体の規範に違反するアイディアの盗用(のようなもの)とみなされるだろう。

研究成果の論文に盗用がある場合、研究不正ともなる。一面では、たとえ内容は科学的に正当だとしても、だれが研究したかに関して正しくない記述は、学術文献の信頼性をそこなうので、学術共同体内の同僚に向けて、また出版者に対して、悪いことである。また別の面で、研究者が自分がやっていないことを自分の成果のように述べることは、(費用を自分でまかなっていない限り) 研究費の詐取にあたり、一般社会の法的規範に反し、また研究資金提供者に対して悪いことだろう。

【[2014-04-18補足] 複製した画像や数値などを、もとの文献中でさしていたのと違うものをさして使ったとすれば、科学的内容をそこなうことにもなる。ただしこの問題は捏造と同じ部類に属する研究不正として、盗用とは分けて考えるべきだろう。】

学位論文は、教育課程のレポートと学術論文の両方の性格を兼ねている。とくに博士論文は、公開されるものなので【注1】、まず学術論文のルールがあてはまると考えてよいだろう。【[2014-04-18補足] したがって、博士論文の場合についてのわたしの主要な主張は上の学術論文のところで述べたもので、このあとに述べることは補足と考えてほしい。】

それに加えて、博士の資格があるかを審査する材料としての規範がある。ただし、そこで具体的にどんな条件を満たすことを求めるかは、専門分野ごとに大きな違いがある。博士号を認定する大学院の「専攻」の教員団がさまざまな専門分科で育った人で構成されている場合は、教員団で話しあって共通ルールを決め、あとは審査員各人の判断になるだろう。論文の総論や序論をとても重視する「専攻」もあれば、重視しない(各論さえよければよい)「専攻」もあるだろう【注2】。方法の記述に、独創的な表現が望ましいとする審査員も、むしろ定型に従うこと(もちろん実際に先例と違うことは書きかえるのだが)を求める審査員もいるだろう。論文の形式的要件をもとにした「序論に文献引用のない博士論文は不合格ではないか」とか、「方法の記述が先輩の論文そっくりなのは盗用ではないか」とかいう批判は、あいての事情によっては的はずれであるかもしれない。「本文から参照された文献が文献リストに出てこない」のは(文献リストという形をとるのならば)専門によらず欠陥だが、文献が実在するのであれば、それを補えばすむことで、とくに深刻な欠陥ではないだろう。

【[注1] ただし、日本では、博士論文は古くから公開すべきものとされていたもののそのための制度は整備されず、多くの場合は、博士論文自体ではなくそれをさらに改訂した学術論文または学術書籍が出版された(あるいはすでに出版済みのものがそれにあたるとされた)。最近になって、博士論文自体をインターネット上で公開する制度の整備が進んでいるが、いくつか問題が生じている。ひとつは博士論文に他の著作物の複製を含むが、公開を想定した著作権者の許諾を受けていない場合があること。もうひとつは、(専門分野によって事情が大きく違うが)学術論文・図書の出版者が、博士論文として公開された内容は新規性がないとして出版対象からはずすことがあること。当面は困る人が出てくるが、しだいに扱いが定まると思う。】

【[注2] わたしが博士号をもらった「専攻」は総論を軽視していたわけではないと思うが、わたしは総論のない「学術論文の束」のようなもの(言語と体裁は統一したが)を提出し、審査を通った。ただし口頭試問で総論的なことを問われたと思う。審査員のひとりから勧められてある雑誌に解説を書いた。それが実質的にはわたしの博士論文の総論だが、形になった博士論文には含まれていない。】