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「地球温暖化問題と科学コミュニケーション」シンポジウムの感想(2)

2013年9月27日に、北海道大学CoSTEPと科学技術社会論(STS)学会によるシンポジウム「地球温暖化問題と科学コミュニケーション」が開かれた。わたしは[2013-09-30の記事]で感想を述べた。なお、そのシンポジウムのために事前に用意された「ガイドブック」という資料をめぐって[2013-09-11の記事]でも考えを述べた。

12月25日、CoSTEPから発行されている『科学技術コミュニケーション』という雑誌 http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/jjsc/ の14号が出た。この号の特集にシンポジウムの3人の講演者がそれぞれ当日の議論をふまえた論文(江守, 2013; 松王, 2013; 三上, 2013)を出している。

他方、アメリカでは、12月9日から13日まで、American Geophysical UnionのFall Meetingが開かれた(わたしは昨年は出席したが今年は出席していない)。この中でNASA GISSのGavin Schmidtさんが、Stephen Schneider記念講演として「What should a climate scientist advocate for? The intersection of expertise and values in a politicized world」という題で話をしたそうだ。Schmidtさんが12月23日にRealClimateというブログのAGU talk on science and advocacyという記事で紹介している。このブログ記事にはDietz (2013)の論文も参考文献としてあげられている。この論文はNational Research Councilの報告書(Dietz & Stern 編, 2008)に基づいている。そこではアメリカでこれまでに実施された環境問題に関する市民参加の事例をたくさんレビューしているが、多くはローカルな問題への適用であり、全国や世界の規模への適用には未知の課題が多いようだ。

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地球環境問題に関する社会的意思決定には、科学的知識が必要だが、価値判断も必要だ。現代社会で想定される理念的な構造は、科学者は事実に関する知識を提供し、それを受け取った市民がそれぞれもつ価値に基づいて発言し民主主義のしくみによって意思決定する、というものだろう。

ところが、科学的知見を提示する活動の中にも価値判断がはいりこむことが避けられない。松王さんがあげた例のうち、Stern (2006)の費用便益分析型の議論での割引率の選択については[2013-09-30の記事]で述べたが、将来の気候の予測型シミュレーションで使われる社会シナリオの設定(複数のシナリオを作るとしてもその群がカバーする範囲の設定)も、専門家が決めると専門家の視野に限られてしまい市民の価値の広がりに対応しない可能性がある。このような状況に対して江守さんは、(このような種類の)科学研究の計画段階からの市民参加(いわゆるco-design/協働設計、とりあえず[2013-11-17の記事]のFuture Earth関係のところ参照)に期待する。そして松王さんは、価値に関する問題整理や調整のために、さまざまな価値規範を対立点・両立可能性などを含めて検討している倫理学者が役だつだろうと言う。知見を提示する科学者(経済学者などの社会科学者を含む)とも市民参加型の方法の専門家とも別の立場の専門家の登場である。Dietz (2013)は、事実と同等に価値が重要だというにもかかわらず、事実の専門家と対等に価値の専門家がかかわるべきだとは言っていないが、科学の専門知識をもつ人のほかに、コミュニティの専門知識(ローカルな課題について言えば、地元の人が日常生活でかかえている課題はどんなものか)をもつ人と、政治の専門知識(提案をどのような形でどこに持っていけば実現につながりやすいか)をもつ人がかかわるべきだと言っている。

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市民参加型の方法については、WWViewsという複数の国で同時に討論をする企画が2009年に地球温暖化について(八木 2010, 三上 2010, 山内 2010)、2012年に生物多様性について(池辺ほか 2013, 郡ほか 2013)行なわれた。シンポジウムおよび今回の論文では、それにかかわってきた三上さんに対して、松王さんが疑問を示す役まわりとなり、三上さんがそれに答えている。なお江守さんは、2010年の論文で2009年の企画をきびしく批評しているが、市民参加型の方法の今後にはおおいに期待している。

今回の3論文を読んだあとのわたしの印象としては、[2013-09-30の記事]ですでに述べたことのくりかえしになるが、WWViewsのような短期的行事よりも、長期継続して同じ課題を追いかける人のいる情報交換拠点にさまざまな人が出入りするような活動の形が望ましいと思った。ただし資金をどう得るかなど運営体制についての案は持っていない。まだ読んでいないが、アメリカの事例についてDietz & Stern (2008)のまとめが参考になると思う。

WWViewsのような形は今後の市民参加の本筋ではないとわたしは思うが、Fishkin氏の商標ではなくもっと一般的な意味での討論型世論調査として、また世界の複数の場所で同じ話題を共有するしくみとしては、意義があるとも思う。ネットワークで結んでいっしょに討論する形も興味深いが、リアルタイムに言語間の通訳を入れながらやるのはむずかしいと思うので、現実的なのは同じ資料をもとに各地それぞれ議論して結果を持ち寄る形なのだろう。

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科学者が価値判断の領域に踏みこむことの是非というむずかしい問題がある。

事前につくられた「ガイドブック」は2007年の日本の科学者有志の声明を踏みこんだ例としてあげていた。江守さんは本人を含む2010年の声明を対照的な例としてあげた。松王さんは両方に名をつらねた人について「解せない」としている。わたしの考えは[2013-09-11の記事]のくりかえしになる部分もあるが、2010年の声明はIPCCが特定の政策を勧めることに踏みこむものではないことを明示しているのであって、科学者が(IPCC報告書の著者としてとは別の立場で)踏みこむべきでないとは言っておらず、2007年の声明の主張の否定にはなっていないと思う。

江守さんはIPCCと同様な立場をとろうとしており、松王さんはそれが科学者の態度として望ましいと考えているようだ。ただし松王さんは江守(2013b)の「手遅れ感」という表現から、江守さんが価値判断を完全には避けていないとも見ている。そして「危機感」は表明しないが「緊張感」を表明するという態度がありうるのだとしている。わたしはこの概念はまだよくわからない。ともかくわたし自身は、今のところ、江守さんが代表する研究プロジェクトのメンバーとして、また科学技術社会論の研究者集団でこの話題を提起する者としては、江守さんの態度に同調している。

ここからシンポジウムの話題を離れてわたしの考えになるが、英語圏で、とくにIPCC第1部会関係の気候研究にかかわりながら社会に向けて発言する人を見ていると、違う立場にも賛同したくなることがある。Gavin Schmidtさんは温室効果排出削減策(「気候変動緩和策」)の必要性を主張する【注(2014-01-11)】 。(しかしその実現方法については特定のものを主張しない。この点は少し前まで同じ職場の上司だったJames Hansenさんとは違う。) 亡くなったStephen Schneiderさんもそうだったと思う。この態度は日本の2007年の声明とも近いと思う。とくに北アメリカでは、おそらく排出削減に反対という価値判断を主張したい人びとが気候変化の科学のほうに踏みこんで偏った情報(これは科学的知見を展望した視点からの評価であるが)を宣伝してきたことが明確にあり、それに反論することが科学者の責務のように感じられる、という事情もある。

  • 【注(2014-01-11)】Gavin Schmidtさんの態度についてはわたしが誤解している可能性がある。上に江守さんのものとして述べたものと同様な態度なのかもしれない。いわゆる温暖化懐疑論に対抗する議論となんらかの排出削減策が必要であることは当然であるとする議論が混ざる例としては別の人をあげたほうがよかったと思う。

科学者である個人も市民社会の一員であるし、科学的知識をもっているという特殊性に基づく社会への責任を感じることもある。ただしそれがどういう主張につながるかは各人の価値判断によって違う。科学者はそういう主張をする自由はあるが、それを科学者集団全体の主張とは明確に区別する必要があると思う。

社会の中での科学者の職能は、相互に評価可能な科学者の集団として、個人の主観になるべく左右されない形で、科学的知見を総合的に提示することだと言えるだろう。それは、ある意味で「科学者集団の合意を反映した知見」である。ただし、具体的な問いについて集団を構成する科学者の見解の一致を要求するわけではない。見解がどのように散らばっているかを的確に示すべきなのだ。(それぞれの科学者の活動にとっては個別の研究論文を発表することのほうが重要であることが多いが、それは外から見ればこの総合的提示のための手段とみなすことができる。)

【総合的提示に対して副次的なものといえるが、科学者集団全体として「これこれの主張は政策決定の根拠にできるほど信頼できるものではない」という形の否定的主張を発することもあるかもしれない。医療の話題になるが、「ホメオパシー」に関する日本学術会議会長談話(2010年、http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-d8.pdf ) はそういう性格をもちうる例だと思う。】

しかし集団を構成する科学者各人は、この総合的提示とは違う形で、社会に発信することも可能であるし、それを抑制するべきではないと思う。発信される内容に価値判断が含まれていてもよく、ただしそれを明示すべきなのだと思う。現状に欠けていて制度化すべきことは、科学者集団の職能としての科学的知見の提示と、科学者である個人からの発信とを、明確に区別するしくみだと思う。

【「科学者集団」と表現したところは、専門別の集団と、それが集まった科学者全体の集団とを分けて論じるべきなのだが、ひとまずその区別を見送った形で書いた。】

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なお、わりあい細かい論点として、いわゆる予防原則(precautionary principle, 事前警戒原則)について、松王さんは2008年の論文で現実の問題についての有効性に疑問を示していて、江守さんも今回の論文でその考えに基本的に賛同している。

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