macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

大気大循環シミュレーションによる知識の位置、とくに荒川差分スキームについて

[別記事]で述べた科学基礎論学会のワークショップ「シミュレーション科学の哲学的基礎」の(たぶんワークショップの本筋ではない)ひとつの話題について考えたことを書く。田名部 元成(たなぶ もとなり)さんの講演「シミュレーションのシステム哲学的基礎」の最後に、Phillips (1956)の大気循環のシミュレーションの例が出てきた。Küppers & Lenhardの論文の議論をそのまま紹介しているようだった。出版年が書いてあったと思うが、わたしには([11月3日の記事]に書いたようにめがねを忘れたせいで)確認できなかった。ネット上でさがすと、2005年の論文(以下「KL2005」として参照する)が見つかり、その第2節「Simulation as imitation -- A case study from climate research」の内容が田名部さんの紹介された話題と対応するので、ここではこれを材料に話を進める。なおLenhard (2007)の論文にもほぼ同じ議論がある(わたしはこれを前に読んでいたので著者名がめがねなしでも読めたのだった)。

KL2005(の第2節)の議論の要点は、「大気循環のモデルは微分方程式で書ける理論から出発しているが、それを離散変数の差分方程式に置きかえる際に理論的飛躍があるので、モデルは理論的に正当化できず、シミュレーションの結果が現実世界の大気循環に似ていること(imitationになっていること)によってだけ正当化される」というものだと、わたしは理解した。

確かに、微分方程式と差分方程式の構造は異質であり、たとえ差分方程式の時間刻みΔt (や空間刻みΔxなど)をゼロに近づけた極限で微分方程式に一致するとしても、それだけで差分方程式のモデルが正当化されるわけではない。

また、現実の大気モデルは、微分方程式で書けない部分を含んでおり、それを含めた全体の評価は、シミュレーション結果が観測事実に似ているかを見るしかない、という面はある。

しかし、大気モデルの(空間刻みよりも充分大きな規模の)流体力学および熱力学の部分については、「差分方程式がどのような意味で微分方程式の近似になっているかがよく考えられており、それがモデルのその部分の正当化の根拠になっている」と主張できると思う。

とくに、KL2005は、Phillips (1956)のモデルの「長時間計算を続けると計算不安定で数値があばれる」という困難に対する荒川昭夫による技術的対策(Arakawa, 1966; Weart 2008)が、理論(微分方程式)への忠実さを捨ててシミュレーション結果が観測される現実に似ていることを評価基準にしたものだと見ている。ここには、いくつかの誤解があると思う。

第1の誤解は、用語の問題なのだが、KL2005やLenhard (2007)は、Phillips (1956)のモデルを「プリミティブ方程式(primitive equations)」に基づくモデルだとしていて、そのことを強調さえしている。しかし実際のPhillipsのモデルは準地衡風方程式(quasi-geostrophic equations)に基づくものである。気象学者は両者を明確に区別している(たとえば二宮 2004参照)。Phillipsの論文にもLewis (1998)の科学史的論文にも「primitive equations」とは書いておらず「quasi-geostrophic」と書いてある。

他方、1960年代以後の「大気大循環モデル」のほとんどはプリミティブ方程式に基づくものである。そして荒川は、基本的に同じ考え(運動エネルギーおよび渦度の2乗の保存)を使って、準地衡風方程式用とプリミティブ方程式用の両方の、長時間計算に耐える差分計算技術を作った。多くの議論では、両者を混同してもさしつかえない。しかし、モデルがいかに正当化されるかという議論の場合は、これを混同した議論はまずいと思う。

現実の大気を「モデル化」してPhillipsのモデルに至る過程をわたしなりに整理すると次のようになる。(なお、1960年代以後の大気大循環モデルの場合は、3まで同じで、4がなくて、離散化が続く。)

  • 1. 現実の大気で起こっているさまざまなプロセスのうちで、流体力学と熱力学だけを取り出す。熱力学的平衡ではなく、加熱・冷却という形の強制が与えられ、散逸が起こる系を考える。
  • 2. 大気を連続流体とみなす。熱力学については局所熱力学平衡を仮定する。(分子よりは充分大きいが大気全体よりは充分小さい空間規模で平均した量が、空間・時間座標について連続で微分可能と仮定する。) 偏微分方程式の形での基本方程式が得られる。
  • 3. 基本方程式のうち鉛直方向の運動方程式を静水圧のつりあいで近似する。これで得られた方程式系を「プリミティブ方程式系」という。(これは気象学特有の用語である)。
  • 4. 水平方向の運動方程式を渦度(の鉛直軸まわりの成分)と水平発散の式に書きかえ、準地衡風(地衡風のつりあいに近い状態)を前提として各項の量の大きさを評価して小さいものを落とす。これで得られた方程式系を「準地衡風方程式系」という。
  • 5. 微分方程式を離散化して差分方程式に置きかえる。
    • 5a. 鉛直方向の座標を離散化して2層にしてしまう。Phillipsの論文ではこの方法が本文で明示的に述べられている。
    • 5b. 水平座標および時間について離散化する。Phillipsの論文では付録で比較的簡単に示されている。当時の準地衡風方程式によるモデルの標準的な方法によったと考えられる。荒川の改良はこの水平方向の空間離散化に関するものである。

KL2005はこのうちの「5」の段階の飛躍だけを問題にしているのだが、モデル化の過程全体から見ると、これは比較的小さい飛躍と言えると思う。これよりも(Küppers & Lenhardは意図的に無視したのではなく気づかなかったのだと思うが)「4」の飛躍のほうが重大だとわたしは思う。

またKL2005は、「荒川は、数学的正確さを捨てて、シミュレーション結果が観測される現象に似ているという評価基準によってモデルの改良の方向を決めた」という趣旨の議論をしているが、これが第2の(第1よりも重大な)誤解だと思う。計算不安定によって現実と似つかない流れのパタンが現われるのを避けたかったことは確かではある。しかし、荒川の開発した差分方式(具体的には、ヤコビアン[Jacobian]という微分演算子の差分表現)は、微分方程式への近似の度合いをそれ以前のものよりも悪くはしなかったし、ある意味では改良するものだったのだ。

差分の微分への近さの一つの尺度は線形論摂動論であり、微分をΔtやΔxでテイラー展開したものと差分とがなん次まで合っているかを見る。この尺度では、荒川のヤコビアンは単純なヤコビアンと同水準にある。これはいわば、方程式をミクロに見た近似の評価である。

それに対して、方程式系で表現されるモデル全体をマクロに見た近似の評価があるのだ。ある量が微分方程式系で保存則を満たすならば、差分方程式系でも満たしていることが望ましい。「ある量」としてまずあげられるのが運動エネルギー(質量あたりで、速度の2乗(かける1/2))の総量だ。Phillips (1956)のモデルは単純なヤコビアンを使っていたはずだが、それは(わたしは未確認だが)運動エネルギーの保存は満たしていたと思う。しかし運動エネルギーの総量は変わらなくても空間的に細かい運動にエネルギーが集中することがあり、それが計算不安定のもとになる。荒川のヤコビアンは、運動エネルギーの保存に加えて、渦度の2乗(あるいはその1/2にあたる「エンストロフィー(enstrophy)」という量)の総量が保存する。これによって運動の場が一方的に細かくなることも一方的になめらかになることもなくてすむのだ。

実際の大循環の計算では、運動エネルギーの散逸がある。KL2005は、荒川が差分方式が従うべき条件とした「エネルギー保存」を「エネルギーの散逸がないこと」とみなし、現実にある散逸を無視するのだからモデルを不正確にする方向の改変だと考えた。これは誤解である。物理的散逸はあってよいのであり、それに加えて差分方式に由来する現実にない散逸が生じないようにすることが「エネルギー保存」という目標なのだ。

実際のシミュレーションでは、エネルギーやエンストロフィーの総量は変化しうるのだが、その変化が微分表現でも差分表現でも同じであり離散化によってつけ加わる変化がないならば、その差分方式はマクロな意味で微分のよい近似になっているということができる。荒川の技巧は、この意味で、差分モデルの微分方程式への近似を高めたといえる。

文献

  • Akio Arakawa, 1966: Computational design for long-term numerical integration of the equations of fluid motion: Two-dimensional incompressible flow. Part I. J. Computational Physics, 1: 119-43. (Reprinted, 1997, J. Comp. Phys., 135: 103-14).
  • 有賀 暢迪 (ありが のぶみち), 2008: 洗い桶からコンピュータへ -- 大気大循環モデルによるシミュレーションの誕生. 科学哲学科学史研究 (京都大学), 2号, 61-74. http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/56988 [Phillips (1956)に至る研究の流れがわかる。ただし計算不安定や荒川の対策に関する話題はない。]
  • Günter Küppers and Johannes Lenhard, 2005: Validation of simulation: Patterns in the social and natural sciences. Journal of Artificial Societies and Social Simulation, vol. 8, No. 4. http://jasss.soc.surrey.ac.uk/8/4/3.html
  • Johannes Lenhard, 2007: Computer simulation: The cooperation between experimenting and modeling. Philosophy of Science, Vol. 74: 176-194. doi:10.1086/519029
  • John M. Lewis, 1998: Clarifying the dynamics of the general circulation: Phillips’s 1956 experiment. Bulletin of the American Meteorological Society, 79: 39-60. doi:10.1175/1520-0477(1998)079%3C0039:CTDOTG%3E2.0.CO;2
  • 二宮 洸三, 2004: 数値予報の基礎知識。オーム社, 218 pp. [読書ノート]
  • 新田 尚(たかし), 大林 智徳, 近藤 洋輝, 遠藤 昌宏, 菊池 幸雄, 岩嶋 樹也, 1972: 気象力学に用いられる数値計算法。気象研究ノート (日本気象学会)、110号、158 pp. [この中に1層の準地衡風渦度方程式のFortranプログラム例があるが、単純なヤコビアンを使っているので、計算を続けると数値があばれることがある。わたしは自習として、この本の本文の記述を参考にして荒川ヤコビアンを使うように書きかえてみたら長時間計算が続けられた、という経験をした。]
  • Norman A. Phillips, 1956: The general circulation of the atmosphere: A numerical experiment. Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, 82: 123-164. doi:10.1002/qj.49708235202
  • Spencer R. Weart, (2008): Arakawa's computation device. The Discovery of Global Warming. American Institute of Physics. http://history.aip.org/climate/arakawa.htm [2022-11-06 リンク変更]