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時代が終わり、時代が始まる

この12月21日または22日が「この世の終わり」になるといううわさが流れた。その根拠は、マヤの暦にあるという。少し調べて(と言っても主としてWikipedia英語版の「Maya calendar」を見て、そのほか気まぐれに見た情報とつじつまが合っていると思ったにすぎないのだが)、次のように理解した。マヤの暦は360日のtunと20進法を基本としている。tunの20倍の20倍(約394年)をbaktunという(「b'ak'tun」というのが正確らしいがここでは記号を省略した形にしておく)。今年の12月は、マヤの人たちが世界の始まりとした紀元から13 baktun (約5125年)が過ぎたところにあたるのだ。もし世界の寿命が13 baktunだと決められているのならばこれが世界の終わりとなるのだろうが、そうではないらしい。すると、第14baktunが始まるだけのことだ。期間の長さは違うが中国の暦で60年で十干十二支がひとまわりするのと似たようなものだ。ただし、たとえマヤ人にとって13という数が重要だったとしても、暦の体系は20進法でできていて、baktunよりもひとまわり大きい周期はpiktun = 20 baktun (約7885年)だ。紀元が正しいとすれば、今のpiktunはまだ約2760年続く。

しかし、マヤの暦の話を離れて、今、約5千年続いた時代が終わり、次の時代にはいろうとしているのではないか、と考えてみることには意味がある気がする。5千年前といえば、ユーラシア・アフリカではいわゆる四大文明の時代だ。「四大文明」という言いかたは日本の慣例にすぎず適切でないかもしれないが、ナイル川流域からチグリス・ユーフラテス流域にかけてと、インド亜大陸と、黄河流域から長江流域にかけての地域で、人間活動による大がかりな土地被覆改変が進んだ時期だとは言えると思う。それから5千年の間、個別の文明の衰退はあっても、人類全体としての自然環境・資源の利用つまりecological footprintはふえつづけてきただろう。今、その限界が見えてきた。次の5千年は、ecological footprintを減らす時代でなければならないのではないか?

ただし、これまでの5千年の傾向は、人間生活が豊かになってきた、とも言えるのかもしれない。すると、次の5千年は、この豊かさを失っていく時代なのかもしれない。希望としては、「豊かさ」が失われることは必ずしも人間が生きていくうえでの「幸福」が失われることを意味しないだろうと思う。

5千年の節目の内側で、1 baktunつまり4百年の節目を考えてみるのもよいと思う。いま終わったbaktunの始まりは、日本について言えば、江戸幕府鎖国政策が始まったころだ。1 baktunの間に人間社会はこれだけ変わることができる。今の状態は持続可能ではないので、また変わらなければならない。いま4百年先まで詳しく計画することは意味がないだろうが、4百年先の人々に選択の自由があるような世界を残そうと考えることは意味があるのではないだろうか。