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どういう意味の科学者の合意(コンセンサス)が望まれるのか

2012年9月15日に仙台で開かれた環境経済・政策学会のシンポジウム「気候変動に対処するための分野横断的研究を目指して: 研究分野間の対話の試み」(趣旨説明ポスターPDF http://www.managi-lab.com/seeps/poster.pdf )に参加した。シンポジウムの話題の紹介もできればしたいと思うが、ひとまず、討論の際のわたしの発言について、その場ではわかりにくかったと思うので、少していねいに述べておく。

わたしの発言の話題は「科学的コンセンサス」だった。

(シンポジウムでの石井敦氏の講演内容でこの用語が使われた部分について、江守正多氏が不満を述べていた。両氏は休憩中に話をして、実質的な考えの違いは小さいという理解に至ったそうだが、世の中でこの用語がいろいろな意味づけで使われているという問題は残る。自己言及的言いまわしになるが、コンセンサスという用語の意味についてのコンセンサスを得るのは簡単でないのだ。)

政策決定をはじめとする社会的意思決定には、科学的知見が必要なことがある。政策決定者が科学を専門的レベルで理解することは現実的でないので、科学者が集団として社会に対する助言機能をもつ必要がある。

科学的助言は「コンセンサス」あるいは「統一された声」であるべきだとよく言われる。実際、おおぜいの科学者がそれぞれに助言を述べたのでは、政策決定者はどれを重視したらよいのかわからなくて困る。他方、すべての科学者の見解が一致することはまずありえないし、一致を強制することは科学者の規範に反する。

理想的な意味で「真理は一つ」であるかどうかは哲学的問題だ。それがいずれになるとしても、現実の人間の認識能力は限られているから、科学者それぞれが真理と思っていることどうしが完全には一致しないのは当然のことだ。

反対側から考えると、科学者各人の認識に主観的要素が含まれることはいなめない。しかし、科学的認識は各人の主観にすぎないという考えは退却しすぎだろう。各人がそれぞれの能力で同じ世界を認識した結果には、同じ世界の性質の反映も含まれているはずだ。

== 1. 共通の概念体系をもつ ==
コンセンサスの第1段階は、概念体系の共有だと思う。科学者各人は、それぞれ自分の概念体系を使って世界を認識する。同じ専門分科で同類の教材を使って学んだ人の間では概念体系は同じとみなしてよいことが多いが、専門分科が違う場合は、たとえ同じことばを使っていても意味づけが違うことが多い。おおぜいの科学者の知見はもちろん一致するとは限らないけれども、一致しているかどうかを判断するためにも、まず同じ土俵に持ちこむ必要があるのだ。そのためには、共通の記述のための概念体系を構築する必要がある。実際には明示的に「概念体系を構築する」作業をするのではなく、認識された事実に関する文章を共同で作るという目標が設定されて、なんとか全員が納得がいく表現を求める過程で、用語やその意味づけが選択されてくるだろう。その中で科学者各人は、自分が最適だと思う概念体系の特徴をいくらかあきらめながらも、自分が重要だと思う知見を伝えるような、妥協をせまられるだろう。

これで、科学者各人の見解の違いが、共有された概念の軸の上での分布として示されることになると思う。それは定量的なものとは限らないが、なんらかの尺度で大小あるいは高い低いとして表わすことが可能だとしよう。

== 2. 科学者の見解の幅を伝える ==
コンセンサスの第2段階は、この尺度の中で、科学者の見解がどう分布しているかを認識し、その広がりを含めて記述することだ。

科学の領分と認識される話題の多くでは、科学者の見解は、次のような構造を持っていることが多いと思う(数値は例にすぎない)。関心の対象である数量について、科学者の見解は、10分の1から10の間に散らばっている。しかし、科学者の大部分(たとえば問われた人数の95%)の見解は2分の1から2の間におさまり、その外側の値が正しいとする人は例外的である。

もちろん、例外的な見解のほうが正しい可能性はなくはない。例外的な見解をもつ科学者は、たぶん、自分の主張が含まれないものを科学的コンセンサスとして示されることには最後まで反対するだろう。しかし、あまりに広い幅を示したのでは、科学への政府投資を含む社会の期待にこたえたことにならないと思う。

この状況で科学者集団が全体として社会に示す助言としては、例外的な見解もあることにふれたうえで、「多数の科学者の見解が『2分の1から2』という幅をもった区間におさまっている」ことを伝えるのが適切だと、わたしは思う。科学的認識には不確かさがあるので、これをたとえば「1」という代表値にしぼって示すのはうまくない。この情報がマスメディアなどを通じて広まっていく際には、伝える人それぞれの価値判断により、示された幅の中央なりどちらかの端なりだけが伝わることがあるだろうが、科学者集団としてはできる限り幅が伝わるように努力すべきだと思う。