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科学者が集団として社会の問いに答えるために

科学者が行政に助言することと、社会全体に向けて発言することとは重なりがある。少なくとも民主主義国では、原則として行政に助言する内容は広く公開するべきだろう。例外となる場合もありうるが、ここでは例外となる条件に深入りはしないことにする。行政向けと一般向けの両方を含めて、[12月7日の記事「科学者の『ひとつの声』『統一された声』とは?」][12月5日の記事「リスクに関する議論の二極化はtwitterで強まったのではないか?」]に書いたことをもとにもう少し考えてみる。

社会の問いに対して、科学が無力な場合もある。その場合は、科学者をそのほかの人と区別しなくてよい。科学者も発言するかもしれないが、それは市民のひとりとしてだ。

科学が正解を出せる場合もあるだろう。その場合は、科学者がまちがえないように確認しあいさえすれば、困ったことは起きないだろう。

しかし、多くの場合は、科学には何も言えないわけではないが、科学的知見にかなりの不確かさの幅があり、その幅のうちどのあたりを重視するかについて科学者の間でも意見が一致しない。そのようなときに科学的知見をどうまとめるかが、むずかしい課題だ。

前の2つの記事では、表現は少し違うが、次のような意見分布がある状況を考えた。

  • K: とても危険だ
  • L: どちらかといえば危険だ
  • M: どちらかといえば安全だ
  • N: とても安全だ

ただし、地球温暖化の問題や、放射性物質の害の問題を考えてみると、この構造が多重になっている。つまり、次のそれぞれのレベルでKLMNの分布があるのだ。

  • 1. 害をおよぼしうる自然現象(hazard)の強さ(および分布など)。
  • 2. 害(damage)の大きさ(および分布など)。1のhazardが未定の段階でこれを論じることがリスク(risk)を論じることだと言える。
  • 3. 害をどれだけ深刻にとらえるか。一方では「安心」(それに対して2が「安全」)。他方では対策をとらなければならないという緊迫感。

地球温暖化の問題から例をあげれば、

  • 1. 気温の変化の大きさはどれだけか。
  • 2. (たとえば)熱中症にかかる人がどれだけふえるか。
  • 3. 温暖化抑制策をとる必要があるか。

放射性物質の場合ならば

  • 1. 放射性物質がどれだけどのように広がったか。
  • 2. 放射性物質は住民ががんにかかる確率をどれだけふやすか。
  • 3. 放射性物質が(ある濃度)検出された土壌を除染する必要があるか。

などとなるだろう。

1,2,3をそれぞれ独立に考えられれば話は簡単だが、実際には同じ人が考えることは独立でなく、現象が強いと思う人は、害が大きいと思い、緊迫感をもつことが多い。研究会のような場で、研究者が冷静にその会合の約束をまもって討論できるときには、意識的に同じhazardを想定して、害の大きさの見積もりの認識を比較することができるかもしれない。しかし、マスメディアやネット上のメディアを含めて、世の中の多くの場面では、そのように前提をそろえることはなかなかできないことが多い。

マスメディア、ネットメディアのいずれでも、KとNが選択されて伝わりがちだ。意外なことにはニュース価値があるが、平凡なことにはわざわざ伝える価値が感じられない。さらに、危険が近づいているという情報があればメディアはそれを伝える使命感をもつだろうし、危険がないという情報は受け手にとってうれしいことだからそれを伝えたくなる動機がある。

人が、科学的知見を意識しないで主観によって述べるならば、KとNは、それぞれ際限なく極端になりうる。しかし、ある程度その領域の科学的知見が進んでいるならば、科学的専門知識のある人の認識する危険性の幅は、一般の人の認識の幅よりは限られているのがふつうだ。

一般の人が多いネット上の議論では、個人の認識としては極端でないLやMの人が多かったとしても、「リスクに関する議論の二極化はtwitterで強まったのではないか?」の記事で述べたように、K+L, M+Nに二極化する傾向があるように思われる。この傾向は、社会の意思決定のためには、困ったことだ。

ところが、民主主義的でないと言われるかもしれないが、科学者の間で議論すれば、KやNの主張をもつ人も多少はいるかもしれないが、大部分はLかMであり、LとMとの間の議論も冷静にできることが多いと思う。「科学者の『ひとつの声』『統一された声』とは?」の記事で述べたように、LとMの認識の幅のあることをすなおに認めた形で、L、Mのいずれの立場の人も大きな不満をもたない形のメッセージを世の中に示すことができると思う。(ただし、短縮されて伝わると一方に偏る可能性が高いので、受け取った人が正確なメッセージに立ちもどれるようにくふうする必要がある。)

そういうふうに議論をまとめるためには、まとめるという意志が必要だ。さらに、まとめる方向に向けた社会技術的なくふうもするべきだろう。たとえば、議論の場では、KやNの主張が出てきた場合には明示したうえでたなあげにし、LとMの主張については共通点と違いの両方を確認しながら進めるようにする。

KやNの人から、異端こそ正しいはずだという主張が出てくるかもしれない。実際には、異端的な意見はやはりまちがっていた、ということが多いので、KやNをたなあげにすることには正当性はあると思う。しかし、まれには異端が正しいこともあることは認めなければいけない。異端的意見をどのような条件がそろったら議論の土俵に上げるか、条件が甘すぎずきびしすぎないように作っておくべきだろう。