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平・鳩山「ネイチャー論文」をどう読むか

「雑誌Natureにのった鳩山由紀夫 元総理大臣の論文」が話題になっているようだ。平 智之 衆議院議員との共著で筆頭著者は平氏である。

これは「何かを論じた文」にちがいないので、日常用語で「論文」と呼ぶのはまちがいではないと思うが、自然科学者が「Natureの論文」と呼ぶ種類のものではない。自然科学者が「論文」と言えば「査読済み論文」、研究で得られた知見について筋道をたてて記述し、他の専門家(原則として匿名)による評価を受けたものをさす。「Nature」の場合はArticle(s)のほかにLetter(s) to Natureという部類も査読済み論文である。平・鳩山の文章は「Comment」とされている。この部類はこの雑誌に昔から継続してあったものではないのでその性格はわたしには正確にはわからないが、新聞の論説と同様な意見を含む記事をのせる欄らしく、おそらく査読は経ていないだろう。(編集者が見て意味がわかりやすいように書きなおしを求めるようなことはあったと思うが、それは査読とはいわない。)

そして、同じ号の巻頭に編集部による無記名の論説(editorial)「Critical mass」があり、平・鳩山の文章はその中で参照されている。 Natureの論説やニュース記事の表題は思わせぶりなところがあり、「critical mass」は、原子核反応の連鎖反応が起こるのに必要な「臨界質量」を意識した表題だと思うが、「批判的な大衆」などの別の意味もかけている可能性もある。内容は、福島原子力事故をきっかけとするものではあるが、日本の科学技術と政策決定の関係、とくに政策決定に対する科学的「助言」のしくみをしっかりさせる必要があるということだ。イギリスには政府の科学顧問という職があり、福島事故の際の緊急の助言もした。日本にも科学に関する内閣特別顧問が置かれたことがあるが(安倍内閣福田康夫内閣)、その後継続されておらず、置かれていたときも緊急事態の役割は考えられていなかった。

ただし日本でも震災前から「助言」のしくみの必要性は論じられておりイギリスを含む参考例の調査もされていた(佐藤・有本 2010, JST CRDS 2011)。総合科学技術会議の科学技術イノベーション戦略本部(仮称)への改組と関連して、科学技術顧問の制度化も検討されている。

Editorialの中での平・鳩山論説の位置づけは、日本には、政策上重要な問題に関する科学技術的知見を提供するしくみが整っていない、という現状の実例なのだと思う。そして、おそらく、そういう意義があるから、編集部は平・鳩山論説をのせる決定をしたのだと思う。

平・鳩山論説の表題は「福島第一原子力発電所を国有化せよ」というものになっているが、Nature編集部がこの主張をあとおししているわけではないと思う。これは、たとえ動機が科学的事実解明だとしても、政治的課題であり、その是非を論じるのにNatureという場は適していない。

また、「国有化」と言ってもいろいろな意味がある。12月21日に、たとえば読売新聞「東電、実質国有化…官民で総額2兆円支援へ」で、政府が東京電力を国有化しようと動いているという報道があった。(東京電力は否定したそうだ。) この場合の国有化は、民間企業の形は保ったまま国が大株主になるという意味だ。平・鳩山の提案は、東京電力から切り離して福島第1原発を国有化するというものだが、その理由は事故の解明のために企業秘密の壁をなくしたいということらしい。(ただし、わたしが思うには、事故の解明のためには物だけでなくその設計や運用にかかわった人も重要であり、へたな組織改編をすると人が残らなくなる。国に移ってもらう人と電力会社に必ず残ってほしい人を選別する必要が生じる。) 齊藤(2011)は、福島第1原発敷地の再生は、東京電力と切り離して、国が担当するべきだとしている。この場合、ねらいは事故の解明でなく跡地の長期的管理にあるのだが、方法は平・鳩山案と似ている。齊藤は操業を続ける原子力発電所は民間企業のもとにあることを想定している。橘川(2011)は、原子力事業を電力会社から切り離して国有化することを提案している。Natureの短い論説ではこのようなさまざまな国有化論を区別して認識することはできない。

さて、平・鳩山論説は、国会議員による「Bチーム」の検討に基づいているそうで、そのメンバーとして両著者のほかに藤田幸久議員と川内博史議員の名前があげられている。このチームでは「最悪のシナリオ」を検討したそうだ。この用語の意味を論説の文脈から推測すると、起こりえた可能性まで含めるのではなく、すでに起こったことについての解釈のうちで最悪の影響を及ぼすものを考えるということらしい。そして、論説では、いくつかの論点について、政府(原子力安全保安院)あるいは東京電力の公式見解とは別の解釈を提示する。この別の解釈のほうが正しいと主張しているようにも読めるので、「Natureにのった論文によれば事故の真相はこうだ」といった噂のたねになってしまいそうだ。しかし注意して読むと、論説は別の解釈のほうが正しいと明確に主張してはいない。どの論点についても、証拠不充分で結論が出せないと言っている。そこで上記のEditorialの、政府のもとに科学的知見を整理して政策決定者に提示するしくみが必要だという主張につながる。推測だが、「Bチーム」のうちには別の解釈が正しいと主張したい人もいたのだろうと思う。しかし、投稿に至る段階で著者が判断したか、編集部の意見によって改訂したかはわからないが、主張を「充分な証拠がないので結論が出せない」ということにしぼったのだと思う。

論点のひとつは事故後に核燃料が再臨界つまりふたたび核分裂の連鎖反応が持続しうる状態に達したかどうかだ。制御棒で停止された原子炉の核燃料が全体として臨界に至ることは考えにくいが、炉心熔融は起きたと認められているので、熔融した部分は燃料と水との配置によっては臨界に至ってもふしぎはないだろう。実際に起きたかどうかになると、モニタリングのデータの解釈の問題になる。海水注入後の3月26日に塩素38が検出されたという報告があり、再臨界が起きているのではないかと疑われたが、その後の再検討でこの検出はまちがいだったとされている。ところが平・鳩山は東京電力ゲルマニウム半導体検出器で計測したデータを保安院経由で入手して検討したところ、塩素38が1.6メガベクレル/ミリリットルあったとしている。この読みかたが正しいかどうか、利害関係がなく専門能力のある人に確認してもらう必要があると思う。査読済み論文をめざす場合と同じ努力だ。また、11月1日に検出されたキセノン135についても再臨界が疑われたことがあったが、使用済み核燃料に含まれた超ウラン核種の自発核分裂で説明できるとされた。これについても平・鳩山は再臨界の疑いは晴れていないとしている。【2011-12-31補足: 自発核分裂から連鎖反応が起こっているが臨界には達していないという状態もありうる。飯泉 仁(aquamasa)さんの11月2日から8日のtwitterでの発言で知った。】検出できるかどうかぎりぎりのごく短時間の再臨界があったかどうかは、健康・環境影響を考えるうえではあまり問題にしなくてよいのではないだろうか。再発してもっと長時間・大規模におよぶ可能性があるかどうかを評価するために過去の事実もはっきりさせるべきだとは言えるが。

関連した論点として、核爆発が起きた可能性があるとしている。水素爆発は水素が大気中の酸素と化合するという化学反応でエネルギーを得る。水蒸気爆発は水の相変化による。核爆発はこの場合、核分裂の連鎖反応が臨界を越えて増幅する状態になってエネルギーが解放されて爆発に至ることを言うにちがいない。(高速増殖炉その他の場合は別かもしれないが)軽水炉用の低濃縮ウラン燃料は、原子炉運転あるいは事故の過程で組成がいくらか変わっても、原子爆弾の臨界量を越えないように設計されているはずだ。専門科学者ではないが、ASIOSほか(2011)の横山雅司氏は、「原発が核爆発する」というのは誤解かデマだと言い切っている。平・鳩山論説では、キュリウム242とプルトニウム238が検出されたことを述べ、こわれた燃料棒に含まれていたものだという文部科学省の解釈を肯定的に紹介している。それが(微量ながら)発電所外に届いた過程にはなんらかの爆発があったにちがいないというのはよさそうだが、なぜか水素爆発という説明に納得せず核爆発の疑いを残している。核爆発がもしかしたら起こるかもしれないという疑いはともかく、すでに起きたという疑いは、科学者としっかり議論すれば晴れるはずだ。水素以外の化学的爆発の可能性は残るかもしれない。

それから「melt down」の議論がある。Melt downあるいは炉心溶融ということばは、どれだけの量のものがとけるか、どこに行くかなどについて、人によって違う意味で使われているので、それが起きたかどうかの議論は意味を確認しながらする必要がある。平・鳩山論説のこの部分の論点は、melt downしたかどうかではなく、燃料熔融によって放射性物質閉じこめのための壁がすべて破れてしまったらしいこと【壁がなくなったわけではないが、閉じこめという目的に対して不完全になったこと】だ。今では、福島第1原発の燃料の一部が圧力容器を破ったことはほぼ確かであり、格納容器をも破ったらしい。平・鳩山論説では、その放射性物質がさらにコンクリート基礎の割れ目を抜けて地下水にどれだけ行ったかが問題なのだが、人も機械も近づけないので量がまったくわからない、ということを問題にしている。この部分は問題提起としてはもっともだと思う。

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