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「中山茂、学問を語る -- 科学史と歩んだ60年」より

11月19日、科学史家の中山茂さんの話を聞く会があったので出席した[主催者によるお知らせのページ]

科学史の総論を聞きたいと思った人はがっかりしたと思う。しかし、中山氏は科学史の通史を最近語ったばかりであり(中山, 2011)、その本のことは主催者による会の趣旨説明でもふれられていた。講演は、どちらかといえば個人的な回顧だった。

中山氏は旧制大学天文学を専攻して卒業したあと、出版社で科学技術史年表の編集をし、科学史関係の本の翻訳をしながら科学史を勉強していた。翻訳の縁で、奨学金を得てアメリカに留学することになり、ハーバードの科学史の博士課程にはいった。そこで強烈なショックを受けた。その影響はこれまでついてまわっているそうだ。講演のスクリーンには「1.大学院」「2. 英語帝国主義」「3.研究至上主義」とキーワードをあげていた。

アメリカの大学院では、博士課程の前半ではたくさんの講義とreading assignmentをこなさなければならない (わたしも1980年代に地球物理分野について先輩・後輩から聞いた)。留学生にとっては英語を読むだけでも大きな負担だが、とくに1955年ごろには、成績が奨学金に直結していて、奨学金なしでは滞在を続けられない留学生は、実際におおぜい脱落していった。(外国からの推薦状は信頼できないので留学生は入学してから選抜されたという事情もあったそうだが。) 博士課程の途中でGeneral Examという試験があって、これに合格すると博士論文を書くことだけが義務となる。このために複数の科目をとらなければならず、中山氏は博士論文の準備と考えて科目を選択したが、あとで、大学が教員を採用するときに大学レベルの教育能力を判断するのにこの試験でとった科目の情報を使うことがあると聞いたそうだ。

アメリカの理工系大学院教育の内容にはドイツの影響があったようだが、大学院の教育体制は明らかにドイツのまねではない。源流の可能性としては、フランスのエコール・ポリテクニクから、アメリカのWestpoint士官学校をはじめとする軍の教育に取り入れられて国内に広まったことが考えられるそうだ。日本の第2次大戦後の大学院の教育体制は形式はアメリカに近いものになったが実質は違う。韓国や台湾のほうがアメリカに近い。

教育体制についての中山氏の結論的意見はよくわからなかったが、アメリカ式のトレーニングの場と、ヨーロッパ式のもう少し自由な育ちかたの両方があったようがよいと考えているように思われた。

中山氏は「英語帝国主義」と学問至上主義がしみついてしまったため、主要な仕事は英語で学術論文として出すことだと考えてきた。それに加えて日本社会の需要に応じて日本語の文章を書いたり編集したりした。しかし、日本語で教科書を書くことはしてこなかった。あとで、教科書には社会的意味があると考えるようになったが、気が進まない。他方、日本の同世代から上の科学史家の多くは「講壇科学史家」で、西洋の学問を受容して講義することや教科書を書くことを本務と考えている人たちだった。

わたしの知っている理科系の学者の中にまざれば、中山氏の態度はふつうのものだ。

しかし、文科系のうちでも文化を扱う仕事になると、対象となる言語で仕事をするべきだという考えもある。科学史についても、日本に関する論文はまず日本語で書いたほうがよいという考えもある。逆に、西洋のことを日本語で論じても専門的研究として評価されない。中山氏は後輩に西洋科学史をやるなら「亡命しろ」と言ったことがあるそうで、今も、日本にいながら西洋を主題とするのはむずかしいという考えは変わらないようだ。

ただし、この日の話にはなかったが、「歴史としての学問」では、西洋と東洋を対等に視野に入れる態度が重視されていたように思う。そのためには、東洋人としては、まず東洋のものごとの専門家になって西洋人に説明できるところまで能力を高めたうえで、西洋のものごとの準専門家になる必要があるのかもしれないが。

講演に続いて、コメントとインタビューを兼ねたような企画が2つあった。

まず、和算の研究で知られる佐藤賢一さんから、中山氏の博士論文で中国の暦とくに授時暦を扱ったいきさつ、ニーダムと薮内清の役割についての質問があった。

中山氏は、General Examのあと、事実上の指導教官だったKuhnがBerkeleyに移ってしまったこともあって、博士論文を早く終わらせたいと思い、天文学の背景知識と日本語・中国語文献を読む能力を生かせる主題を選んだそうだ。中国の科学史をやるならばその総合をめざしているイギリスのケンブリッジのニーダムがどこまでやったか知る必要がある。行ってみると、ちょうど体系的な本の第3巻の数学・天文学の巻の原稿ができあがったところだったが、暦に関する天文学が欠落していることに気づいた。ニーダムは生物学から出発したので、"exact science" にはあまり強くなかった。薮内が中国の暦に関する研究をしていることは知っていたので、ハーバードからの出張の形で京都大学に滞在して勉強した。

次に、物理学史が専門でSTS(科学技術社会論)にもかかわっている伊藤憲二さんが、日本のSTSの状況についての展望を述べて、中山氏のコメントを求めた。

STSのもとになる議論は、大学紛争や反戦運動のあったあとの1970年代に、ロンドンのポリテクニークなどで起こった。

1990年代にまたさかんになった。これは紛争世代のうちで大学に根づいた人の弟子たちが力をもってきたということのようだ。その議論は1970年代ほど批判的ではない。

STSは問題領域であって、disciplineではない。STSを仕事にする人は、それぞれdisciplineを持っている必要があるだろう。科学史はdisciplineでありうる。

ディジタル技術が発達して情報伝達のメディアが変わっている。学問の伝播形態はまだあまり変わっていないが、今後変わりうるのではないか。それで科学者コミュニティがどう変わっていくかは、STSの課題だろう。

続いて、会場からの質疑があった。わたしも発言したが、その件は[別記事]として述べたい。

橋本毅彦さんから、中山氏が編集の中心となった日本の第2次大戦後の科学技術通史についての質問があった。中山氏は、科学の社会史(体制史)は広重徹氏がやってくれると思ったら死んでしまったので自分の役まわりと考えたそうだ。分担者それぞれに書く気になるテーマを書いてもらったので、網羅的ではなく、抜けはいろいろあるだろう。通史の出版はトヨタ財団の勧めで始めたのでお金はあったが組織上の苦労はあった。英語版を作ろうとしたときには、金、人、組織の問題があり、4巻まで出したところで自分としてはあきらめた。

山田俊弘さんから、地質学の歴史に関する質問があった。返事はおもに井尻正二論についてだった。近代科学の力学的自然観に対して、地質学は「歴史科学」だと言った井尻氏の科学論を中山氏はほめたつもりだったそうだ。地学団体研究会の運動についてもgrass-roots geologyとして評価した。ただし、地学団体研究会は老害を排するとして役員は30台までだと決めたのに井尻氏は役員を引退しなかったことを批判したら井尻氏の逆鱗にふれてしまった。

そのほかにも活発な質疑があった。

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