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核エネルギー利用: 夢の技術の基礎研究に投資するか?

原子力発電の技術は、ウランおよびプルトニウム核分裂ばかりが発達してきた。これは、核兵器(原子爆弾)の材料となるプルトニウムを作るために開発された原子炉の技術を民生用に利用(「平和利用」)するという流れによる。しかし、質量がきれいにエネルギーに変わってくれるわけではなく、廃物として放射性も化学的性質もまちまちな多種類の核種の混合物ができてしまう。これを正しく管理し無害にする費用を考えると、もともと採算がとれない技術だったのではないだろうか。

わたしは、人間が核エネルギーを利用するのが原理的にいけないことではないと思う。しかし、原子爆弾のわだちにはまらず、エネルギーの副産物としてできる物質がよくわかった少数の核種であるような反応を追求するべきではないだろうか。

それはたぶん核分裂ではないと思う。核融合かもしれないが、いま研究されているような、重水素トリチウムを超高温で反応させるという技術の延長で実用技術が出てくるともあまり思えない。これまでに主張された常温核融合が本物とも思えないが、人間にとって制御しやすい温度領域で起こる核融合反応があれば望ましいことは確かだ。

現代世界の人間社会としては、ウランおよびプルトニウムに関する技術開発はあとしまつに関するものにとどめ(それにもかなりの公共部門からの支出が必要だと思うが)、まったく違う原理の核エネルギー利用が可能かどうかの基礎研究にもっと投資するべきではないだろうか。

注意しておかなければならないのは、その基礎研究から確実に実用技術に至る保証はないことだ。これは、あてにならない投資なのだ。そこに、基礎物理と材料科学のそれぞれ世界最高レベルの頭脳をもつ研究者に取り組んでもらい、もし結論として実用にはならないということになっても研究者や投資した人をとがめない、という態度をとれるだろうか。現代世界にはもうそんな余裕はないというのならば、もし原理的には可能だったとしても、それには人間の手は届かないことになる。

もし研究が成功してエネルギー資源が安くなってしまった場合、1970年代のソ連の気候学者Budyko (ブディコ)が心配した件「人工廃熱による温暖化」の問題が残る。熱力学の法則が否定されない限り、究極の廃物は(物質ではなくエネルギーだが)常温熱だ。

文献

  • Mikhail I. BUDYKO [ブディコ], 1974: Izmeniya Klimata. Leningrad: Gidrometeoizdat. [日本語版] 内嶋 善兵衛, 岩切 敏 訳 (1976): 気候の変化。日本イリゲーションクラブ。[英語版] (1977): Climatic Changes. Washington DC: American Geophysical Union.