macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

知的公共財の費用をどうまかなうか? (とくに地球観測データについて)

知識・情報は、だれかに提供してももとの持ち主のもとからなくなるわけではない。したがって、だれでも使える公共財とするのが自然であり、特定の人の財産にするためには人工的な制度によって制限をつける必要がある。

とくに、地球観測データは、もとの情報源は自然界だし、観測活動も多くの場合各国政府などの公共部門によって行なわれるので、公共財とするのがもっともだ。

実際、公共財として扱われているデータも多いのだが、そうでないものも多い。

法律的に考えると、文書や計算機プログラムは著作権の対象だが、数値データはそうではない。しかしデータを体系的に編集したデータベースは日本では著作権の対象になりうる。別の国ではデータベースについて著作権とは別の知的財産権が設定されていることもある。多くの場合、データを知的財産とする法律的根拠は、知的財産権ではなく、データを引き渡す際の契約のライセンス条項のようだ。

計算機プログラムの場合、オープンソースソフトウェアが確立してきた。このうちには著作権のないパブリックドメインのものも含めることができるが、多くのものは著作権を主張したうえでライセンスによって事実上公共財としたものだ。ただし、知的財産は派生物が作れることが特徴であり、自由には自由を制限する自由を含むというパラドックスがあるので、オープンソースライセンスには、派生物が自由であることを強制するGPL (GNU Public License)型と、派生物に制限をつける自由を認めるBSD (Berkeley Software Distribution)型がある。

わたしは、地球観測データは、観測やデータ整理を行なった人(多くの場合は官庁だが)を明示し尊重するべきなので,著作権のあるオープンソースソフトウェアに準じた扱いをしていくのが望ましいと思う。(著作権制度を適用すべきだという主張ではない。)

現実には、アメリカ合衆国連邦政府のデータは国家機密やプライバシーにかかわらない限りパブリックドメインだが、そのほかのいろいろな国の公共部門はそれぞれに違った制限をつけている。

制限する理由のうちには、国家安全保障を理由とするものもある。今では、一方では人工衛星観測があるので厳密な秘密を保つことはできず、他方では情報を隠すと外国から協力を得る機会を失う、という批判ができる[注: 中山幹康さんの講演で聞いた]。しかし、隠すことには、実はだれの得にもならない効果にせよ、なんらかの効果があるので、それをよい効果だと思っている組織に判断を変えさせるのはむずかしそうだ。

もっと多くあるのは、データ提供元(観測を行なっている機関であることが多い)が、データを売ることによって収入を得る必要があるので、無料で公開されては困ると言う場合だ。

そのうち一部の場合は、有料でのデータ提供業務が制度化され、データの形式が整えられて値段が明示されている。公共部門のこの出口から先では、データは商品(経済財)となっているわけだ。

(有料であっても再配布自由の場合は公共財とみることができ、その場合に利用者が払うお金は代金ではなく手数料とみるべきだろう。)

(日本も、官庁のウェブサイトからオンライン公開されているデータもあるが、それ以外のデータはいわゆる外郭団体の財団法人などから有料配布されていることが多く、再配布制限のある商品となっていることが多い。またそういう財団法人の事業は利用者として日本国内だけを想定し日本語だけで説明をしていることが多い。日本政府はアジア諸国のうちではデータ公開を進めているほうだと思うが、外国から見るとほかのアジア諸国に劣らず閉鎖的に見えると思う。公用語が英語で国内限定のデータがない国はとくに外国向けの対応をする必要はないので、そういう国を含めた比較は不公平ではあるのだが。)

別の場合は、データ提供の制度ができておらず、データを提供してもらう条件は個別の交渉ごととなる。交渉の条件としてお金を払うことになれば「データを買う」ということになるが、他の人が同様な条件でデータを買えるとは限らない。(日本政府のデータの多くも、1990年ごろまではそうだった。)

こういった制限を、地球観測データは公共財であるべきだという理念だけでは、とがめられない。データを整備するのには費用とくに人の手間がかかるのだ。一般に公共財をつくる費用をどのようにまかなうかは、とてもむずかしい問題だ。

資本主義社会の企業が株主の利害に忠実にふるまうとし、株主が金銭配当または株価の値上がりを求める経済主体としてだけふるまうとすれば、無料で手にはいるものを手に入れるためには、手間賃は必要だろうが、それ以外の支出、たとえばデータ提供元への寄付は、明らかにむだづかいであって、もし経営者がそういう支出をしたら株主に対する背任行為となるだろう。例外は、その寄付などが企業の評判を高める宣伝効果がある場合と、税制などによって寄付をしたほうが配当や企業内留保よりも金銭的に得になるようにしくまれている場合だろう。

公共部門であっても、たとえば研究のために必要な支出をする立場では、市場経済の経済主体(消費者)なので、経済財として提示されたデータの代金を払うことはできるが、公共財のデータに手間賃と記録媒体・通信の費用以上のお金を払ったら公費のむだづかいとしてとがめられるだろう。

公共財が必要であれば、それを整備するための費用は、公共部門が公共財整備という目的を明示して支出する(国民としては税金のそのような使いみちを認める)か、個人が自発的意志で支出する(国としてはそれを奨励する広報活動や誘導する税制などを整備する)か、のいずれかに限られるように思う。

地球観測データの場合は、多数の国のデータをいっしょにして使うことによって、たとえば洪水や渇水などの災害の被害を減らすことができるとか、エネルギー資源を節約できるとか、あるいは、多くの人が知的に豊かになったと実感できるような科学的知識が得られるとか、いずれにしても人類にとって有意義であることを裏づけをもって示し(これは簡単なことではないが)、政策決定者に公共支出あるいは税制などでの優遇をする価値があることを納得してもらう必要があるのだろう。

なお、現代世界には大きな所得格差があり、世界全体のデータ整備にはすべての国が動くべきではあるが、費用負担の面では所得水準の高い国の責任が大きい。

(頭の中にあることを書き出したがよく整理されていない。また書きなおすかもしれない。)