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持続可能になるためにはどう変わっていったらよいだろうか - 気候適応策、温暖化軽減策を含む

人間社会が持続可能なものになり、それを達成するまでに悲惨なことがなるべく少なくてすみ、しかも近代文明によって得た幸福をなるべく失わないようにするには、どういう政策を考えたらよいだろうか。

人間活動が地球環境(生態系と物理化学的地球表層システムの両方を含む)に与えるインパクトが大きく、それが人間社会に対する制約を強めてしまっていることは確かだ。人間活動は地球環境へのインパクトを減らす方向にあらためていかなければならない。厳密ではないがひとつの指標で代表させるとすれば、Wackernagel and Reesのエコロジカル・フットプリントを減らしていくことと言ってよいと思う。

近代文明は、更新可能でない資源(化石燃料や鉱物資源)や更新困難な資源(土壌など)を大量に使うことによって成り立ってきた。人類社会を持続可能にするためには、近代文明による幸福の一部はあきらめる必要があるだろう。しかし人口がふえてしまい、それを強制的に減らすことは(上に「悲惨なこと」と書いたように)避けたいので、単純に近代以前にもどるという選択肢はない。多かれ少なかれ近代文明の影響を受けた生活から出発して、単純にあきらめるものと、代わりの手段を考えるものをよりわけていかなければならない。

化石燃料ほど便利なエネルギー資源はなかなかない。更新可能なエネルギー資源のほとんどは、時間的・空間的に偏って存在し、またあまり密度が高くない。エネルギー資源の需要の時空間分布を供給に合わせられる場合はそうすること、そして、エネルギーをたくわえること(およびそのための技術開発と普及)が重要だ。

ここで気候・水文屋の我田引水になるが、各地の住民が、その地域の更新可能なエネルギー資源の供給の時空間分布に関する知識、つまり、気候・水文に関する知識をもつことが大事になってくると思う。このところ気候研究者は「温暖化予測」に動員されていて、温暖化軽減策のための科学技術といえば工学的(一部は農学的)な技術開発の課題ばかりがならぶが、更新可能エネルギー利用のために必要なのはむしろ現地の資源を評価する技術ではないだろうか。(今の気候・水文学がそのまま有効とは言えず、需要をもつ人と共同で考える必要がある。) これはまた気候変動への適応策でもある。

それでも、更新可能なエネルギー資源は、いま化石燃料が使えるほど自由には得られないだろう。少なくとも工業国では、エネルギー資源の需要量を減らすことを考えなければならず、節約にも限りがあるので、便益そのものをあきらめなければならないものも出てくるだろう。

石油・天然ガスが使えないとなると、飛行機燃料は非常に貴重なものになる。電気飛行機は電気自動車よりもずっとむずかしそうだ。そうすると飛行機による人の移動は公共的意義のある場合に限る必要が出てくるのではないだろうか。もしかすると軽い気体で浮く飛行船が有効かもしれないが、たぶん、海を渡る移動は船によるのがまたあたりまえになると思う。そうすると、日本からアメリカやヨーロッパへの出張は数か月がかりの仕事として計画しなければならない。もちろん今ではテレビ会議などの技術があるので、移動しなくてよくなる場合もあると思うが。

電動エレベーターやエスカレーターがふえたのは、歩くのが不自由な人の移動する権利を保証するという意味ではいいことだが、化石燃料が使えないとすればぜいたくすぎるのではないだろうか。だからと言って階段だけにもどる必要はないだろう。たとえば、必要となれば人力でも動くエレベーターを作ればよいのではないだろうか。(話はとぶが、必要となれば人力でも充電できるパソコンはすでに作られている。)

食べるものも、たとえば、穀物を食べさせた牛や、直接人の食料にもなりうる魚を食べさせた養殖魚などは、特別の時に限られたぜいたくとみなして、減らしていく必要があるのではないだろうか。また、今の近代文明国では、冷凍・冷蔵輸送のおかげで、生鮮食品をどこでも食べられるようになっているけれども、これはたぶん、一部は資源を投入して続けなければならないが、今よりは縮小しなければならないだろう。エネルギー資源を投入しつづけなくても食品の価値を保てる技術が大事になってくるだろう。

読み書きの手段として、木に由来する紙を大量に消費するのは避けたい。しかし、電子的記録媒体でも、記録を維持するには常に電源がはいっていなければならないものや、希少元素を使うものは、あまり大量にすることができない。ここでも、資源を投入しつづけなくても情報を保てる技術が大事になってくる。

発展途上国が幸福の向上をめざして資源の消費をふやすのを、いけないとは言いにくい。そこで、工業先進国のあとを欠点を含めてたどるのではなく、いわゆる馬跳び(leap-frog)で、先に行ってもらう(よりよく持続可能な方式を選んでもらう)ことが大事だと思う。それとともに、まず、一見豊かさの象徴に見えても、考えてみれば明らかに浪費的な習慣(たとえば大型乗用車)については、まねをするのはカッコよくないという価値判断をしてもらえないだろうか。また、工業国で不要になった中古品を使うことによって、お金の尺度では節約になり、材料資源も節約になる場合にも、エネルギー資源や消耗品などの資源のむだが多かったり、汚染による害がある場合には、それを避ける政策をとってもらえないだろうか。