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ソーシツ

「音が同じで意味が反対」の事例集にひさしぶりの追加。

選挙前、テレビで政策の話をしているのを、不連続に聞いていた。「雇用の喪失」ということばが出てきたと思ったが「雇用の創出」だったのかもしれなかった。

もし注意して聞いていたとしても、話し手の発音そのものが、どちらでも区別がなかったかもしれない。とくに関東型の発音では、無声子音にはさまれた母音が無声化しやすく、しかも u を口びるをまるめずに発音するので、「シュツ」と「シツ」を区別するとしても違いは小さく、区別を意識しない人も多いだろうと思う。

もちろん、文脈が理解できていれば区別はできる。「雇用」が望ましいことだという前提をおけば、現在起きている問題点の話題に出てくるのは「喪失」であり、政策としてやりたいことの話題に出てくるのは「創出」にちがいないのだ。望ましくない「○○」について「○○の喪失」と言ったり「○○の創出」と言ったりすることがあるとまぎらわしくなるが、どちらもあまりありそうもない。

コメ国科学アカデミー紀要

2012年12月27日、あるウェブサイトの本物の科学ニュース記事中で、「コメ国科学アカデミー紀要」という学術雑誌があることになっていた。ただし英語ではProceedings of the National Academy of Sciences USA (PNAS)と書いてあった。話題はイネ(稲)に関する研究成果であり、本物の「コメ」が登場していた。原稿中にあった「米」という字をいっせいに「コメ」に置きかえてしまった結果にちがいない。なぜこのような置きかえをしたかは説明されていないが、日本語圏の新聞の習慣で、「アメリカ」を「米」と書くことがあまりに頻繁なので、「米」という字を本来の「こめ」の意味に使うことを避けているにちがいない。もしそうならば置きかえで保護する目的であったはずの対象をこのときはうっかり保護しそこなったことになる。わたしは、表意文字(この用語は厳密には正しくないが)・表音文字の筋から、「米」の字は「こめ」の意味に使って「アメリカ」には使わないのが望ましいと思う(自分ではそうしている)けれども、字数の制約がきびしいときにはその筋をとおすのはむずかしいのかもしれない。なお、ウェブサイト上のまちがいは27日中に訂正されていた。

わたしの思いは、ほんとうに「コメ国科学アカデミー紀要」があったらいいな、というほうに飛んだ。国家単位ではなく、米をつくる人々、米を食べる人々がいっしょに科学の進めかたや成果を議論しあう団体(アカデミー)があって、それが雑誌を出して、米の国の中はもちろん世界の人々に読まれるようになるとよいと思うのだ。(イネを栽培できない寒い地域や乾燥地域を排除することになってしまうけれども、そこはそこで別に団体をつくればよいとも思う。) 英語名はProceedings of the Rice Country Academy of Sciences (PRiCAS)となるだろうか。仮にcountryを単数にしてみた。「米の国」を国家の境で分割せずに連続的なものとしてとらえられるならばこれでよいと思う。国家を意識しながら「わが国こそ米の国」と思う人が多いならば複数形にするべきかもしれない。Scienceも単数と複数のどちらがよいか疑問があるが、ひとまずアメリカ合衆国科学アカデミーに合わせてみた。なお略称にriceからRだけでなくiも入れてみたのは子音が続くと発音しにくいからでそれ以上の意味はない。

奇人

昔、ただしテレビ受信機がだいたい一家に一台普及したころ、夕方テレビのスイッチを入れると、次のような歌が聞こえた。

奇人 奇人 奇人 奇人
うちじゅうみんな 奇人 奇人

(当時わたしは、わたしの属していた集団の中で「奇人」だったにちがいない。しかし、たぶん「うちじゅうみんな奇人」ではなかったと思う。)

指のもつれ: remote sending

「空耳、空目、誤変換」というカテゴリーで書こうと思っていることの中には、この3つの用語がさす以外のこともある。そのひとつは、意図しない書きまちがいだが、日本語のローマ字・かな・漢字変換機能に由来するものではなく、手の動きに由来するものだ。キーボード上でまちがったキーを押してしまったり、押したつもりが押していなかったり、くりかえしてしまったり、といったものだ。「舌のもつれ」という表現にならって「指のもつれ」というのが適当だろう。

たとえば、わたしは最近1年間に何度も「原理食」あるいは「原理職」と書いてしまった。それまでめったに打ったことがない gensiryoku という文字列を打つはめになったせいだ。しかしこれはとくに興味のわくまちがいではない。

今思い出せる自分の「指のもつれ」のうちでいちばんおもしろかったのは、英語でremote sendingと書いてしまったことだ。ここはremote sensing (遠隔観測)と書くつもりだったのだが、遠くに何かを送ることになってしまった。もし byなになにで電磁波によることが示され、ofなになにで対象が質量のある物体であることが示されると、SF的設定になるのだが、そこまでおもしろい文にはならなかった。

[2012-09-21追記] 自分が書いた文章(別のブログ記事)を読みかえしていたら意味がとおらないところがあった。「その」とあるところは「どの」と書こうとしたにちがいないのだ。意識的に「その」と書いたのではなく、remote sendingのときとは逆向きに d と s のキーを押しまちがえたにちがいない。

卒アル

3月ごろ、薄暗い時間に通りかかったまちかどの広告ポスターに「卒アル」という文字列が見えた。その建物には喫茶店があるので、「アルコールを卒業しよう」という呼びかけなのだろうと思った。

明るいときに見たら、ポスターは喫茶店のものではなく隣のカメラ屋のもので「自分だけの卒業アルバムを作りましょう」という話だった。ディジタルになって少なくなったプリント需要を掘り起こそうというカメラ屋の商売の意図はわかる。ただ、学生・生徒に「卒アル」と言って通じるのだろうか、なんだか疑問に思って近寄る人を相手にするつもりなのだろうか。

釈迦夷狄

あるフリーの日本語入力ソフトウェアを使っていたとき、たびたび「釈迦夷狄」と書いてしまい、いろいろなことがらを連想したが、焦点を結ばなかった。

「な」をつけた場合は「社会的な」になってくれたという記憶がある。(ただし、このところその入力ソフトウェアを使う環境から離れているので確かでない。) もしそうだとすると、漢字変換の論理が、学校文法用語を使うと「『社会的だ』という形容動詞はあるが『社会的』という名詞はない」として作られているのだと思う。そして、「形容動詞の語幹」が複合語の前半として使われることがけっこうあることを見落としていたのだろう。

機構変動

自分が書いた文章を読みかえしていたら、書いたつもりのない「機構変動」という文字列があった。

「気候変動」と書くつもりで、ローマ字入力漢字変換の結果を見ないでいたので、「きこう」に対する第1候補が「機構」になっているのに気づかなかったのだろう。

しかし言われてみれば「機構変動」はこのあたりに存在する。これこそ、このごろ職場が落ち着かなくなっている原因ではないか?

「機構」には「機械のしくみ」のような意味もあるが、2000年以後の日本では、独立行政法人や半官半民の法人(あるいは法人の連合組織)の名まえとして「なになに機構」という形が使われているのがいちばん多い使いみちだと思う。少なくともわたしにとってはそうだ。英語で言えばorganizationだろう(必ずしもその法人の英語名にこの単語が使われているわけではないが)。

わたしは2004年から「機構」の中にいる。その中で、組織の再編成を経験した。組織の名まえが変わるだけでもいろいろな書類を書きかえなければならないし、仕事をするのにだれの了解を得る必要があるかなどの流れが変わる。一部の人は新しい組織でまとまりがよいように引っ越しをさせられた。現場の仕事内容に組織を合わせるような再編成ならば歓迎なのだが、変えること自体が目的としか思えない再編成は、現場としては迷惑なだけだ。

さらに、「機構」がほかの組織と合併することが政府からの指令で決まったり、たなあげになったりした。最近は、また、今度はもっと多くの組織と合併せよという指令が政府から出ている。

どうも、このごろの「機構」では、常に、最近の「機構変動」に適応するか、次の「機構変動」に備えているかの業務があって、仕事の時間の大きな割合を使ってしまっているような気がする。「機構変動」が激しすぎるのだ。機構変動の軽減が必要だ!

ただし、わたしは「気候変動」ということばを使わないわけにはいかず[別記事参照]、しかも、聞いて区別できないことばを使うのは嫌いなので、「機構変動の軽減が必要だ」という表現を本気で使うつもりはない。ただし主張の内容は本気だ。

空耳、空目

空耳(そらみみ)というのは、実際には音がしないのに、音がしたと感じることだ。

ところが、近ごろはむしろ、あることばを別のことばと聞きちがえることを言うほうが多いようだ。

そして、空目(そらめ)ということばも見かけるが、これはいつも文字の読みまちがいをさしているようだ。おそらく、電話よりも電子メールなどの文字情報伝達がさかんになった時代になって「空耳」から派生したことばだろう【注】。ただし、Cleveland (1985) The Elements of Graphing Data [読書ノート]の表現を使えば、cognition (認識)に至る前の、perception (知覚)の段階でのかんちがいをさしているようだ。

【注(2014-11-20)】コメント欄でご指摘いただいたところによると、「空目」も昔からあることばだ。ただし、そのおもな意味は、実際には目に見える物体がないのに、物体が見えたように感じること、だったと思われる。文字列中のある語を別の語とまちがえることをさすのは新しい使いかただろう。わたしはひきつづき、その新しい使いかたについて、上に述べたように、「空耳」が先でそれをまねたものだろう、と推測している。ただし明確な根拠があるわけではない。