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年棒

データのグラフ表現について書いた記事[2015-04-13「グラフの軸をゼロから始めないのはうそつきか / そろばんグラフのすすめ」]の中で、棒グラフで表現される情報の例として「年俸」を出した。それを書いたときは忘れていたのだが、「年俸」が「年棒」と書かれているのを見ることはめずらしくない。

これは誤字であり訂正すべきだが、多くの人にとって「俸」の字はふだん使うものではないので、意識的に調べないと書けない人が多いのはあたりまえだとも思う。

20世紀後半の長いあいだ、公務員に関する用語として「俸給」はあったのだが、日常会話では「給料」で置きかえられるのがふつうだった。プロスポーツ選手の待遇に関心のある人たちだけが「年俸」を知っていたと思う。

20世紀末に、研究職の雇用も「年俸制」にしようという政策が、どこか「上」のほうから降ってきた。ある職場で ある職種の人は、自分の意志でなくほぼ強制的に「年俸」をもらう立場になり、自分で意識して選んだのでない「年俸」ということばを使わされることになった。同時期に、それまで公務員であった研究職の多くが公務員でなくなったのでその給料は「俸給」ではなくなった。「俸」の字は「年俸」にしか出てこないのだ。ただし「ネンポー」といえばまず「年報」だ (研究職は年度ごとに研究所の「年報」(年次報告書)の原稿を書かなければならない立場になることが多い)。それとは区別しなければならない。うろおぼえで「年棒」が出てくるのも無理もないではないか?

準備満タン

ある人が、「準備満タン」という表現を話題にしておられた。そのかたの論旨とはつながらないかもしれないが、わたしなりに、この表現について考えた。

この表現は、「準備万端」のまちがいと考えられることが多い。まちがいとしない場合も、パロディーのようなものであり、会話はともかくきちんとした論述文では使ってはまずい、俗語表現として扱われているだろう。

そして「準備万端」自体が、日本語の表現のどれが正しくてどれはまちがいだと論じる人の材料になる。「準備万端がととのった」という表現は正しいが、「準備万端です」というのは変だ、というのだ。英語で言えば、"All items of my preparations are ready." はよいが、"All items of my preparations!" では文になっていない、ということにあたるだろうか。

「満タン」は、タンクがいっぱいになっている、という意味にちがいない。「満」の使われかたは、「満場」「満面」などと共通だ。「タン」が漢語由来の要素でないので、正式でない感じがするだけなのだ。

タンクのなかみはなんでもよいのだが、自動車(や、「原付自転車」)のガソリンタンクが想定されていることが多いだろう。仕事のために自動車を運転する必要のある人にとって、仕事の準備には実際にはさまざまな要素があっても、自動車のエネルギー源であるガソリンを入れておくことで代表したくなるのはよくあることだと思う。今から50年ぐらい前、自動車を運転する人がまだ少なかったが、原付自転車を運転する人は多かったし、自動車を持つこと、あるいは自動車産業にかかわることが誇らしいこととされていた。そして最近は、自動車が生活の必需品になってしまった地方も多い。そういう変遷を経ながら、日本社会では、ガソリンを使う自動車に関するものごとをたとえに使う表現が、わりあい通じやすい状況が続いていると思う。

もっとも、大都市では、多くの人は自動車を運転しない。他方、大都市でもいなかでも、携帯電話が普及してきた。携帯電話に限らず、(使い捨て電池でない)電池で動く携帯機器を、外出中に使うためには、電気のコンセントがある本拠地で、充電しておかなければならない。電気は液体ではないものの、電池の充電状況を示す図解として、容器の中に液体がたまっているような形がよく使われる。そこで、外出の準備を、携帯機器をじゅうぶん充電しておくことで代表させて、しっかり準備したことを「準備満タン」と表現することも、無理がないと思う。

「万端」の場合と違って、「準備満タンです」のような形で、意味が通じる。

みなさまには、どうか、この表現を、まちがいだとか俗語だとかいう評価によって書きことばから排除しないようにお願いしたい。

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ことばに関する「歴史のもしも」だが、もし、tank が漢語であるかのように、たとえば「箪庫」として受け入れられていたら、「満箪」はもっと早く、正しい日本語表現と認められていたと思う。

あるいは、もし、漢字を使うよりも、かながきのほうが標準的表記になっていたら、「じゅんび まんたん」は「じゅんび ばんたん」に劣ると感じられないだろうから、もっと早く、正しい日本語表現と認められていたと思う。

適応/適用、いちおう/一様、京王線/京葉線

「適応」と「適用」

「適応」と「適用」が混同されることがあるのは、ときおり気づいてはまた忘れていたのだが、2014年12月3日に川端裕人(@Rsider)さんのtweetで指摘されていたのであらためて意識した。指摘の対象はスポーツ関係の報道記事で、「ルールを適用する」というべきところが毎度「...適応する」となっていたのだった。

これは、広い意味の同音異義語、なのだと思う。それぞれの単語がどういう音素から構成されているか(というよりもおそらく多くの日本語話者の場合は「かな ではどう書くか」)を意識して使う場合は、「同音」ではないとされるだろう。しかし、実際の話の中で使うとき、両者を区別できるように発音している人はむしろ少ないのではないだろうか。そして、文字を読むより先に耳から聞いて知った人にとっては、音では区別できず、文脈を知って使いわけるしかない単語の組ではないだろうか。

音素に分解してみた場合の違いは、iとoの間に、半母音の[j] (これはIPA [国際音声記号]の表現、日本語ローマ字では y )がはいるかどうかなのだが、iとjは似た音で、iからoになめらかに移ったときにjがはいるのとはいらないのを区別して発音することはむずかしい。どちらかというと、母音と母音を、間に子音(「半母音」と分類されるものを含む)を入れずに続けるほう(音声学用語でhiatusというそうだ)がむずかしいと思う。

わたし自身、反省してみて、「適応」と「適用」を書きまちがえることはないが、聞きとりでどちらかわからないことはよくあるし、わたしの発音も聞いただけで区別できるようになっていないだろうと思う。そして、このふたつのことばはどちらも必要になることがある。まぎらわしいと気づいた場合にはなるべく「適用」のほうをほかのことばで言いかえるようにしているが、文脈によってはうまい言いかえが見つからないこともある。

(わたしが思いあたるかぎりの)日本語の「適応する」という動詞の使いかたは、「...に適応する」であって「...を適応する」ではない。もし「他動詞」とは「目的語をとる動詞」だとし、「目的語」とは「を」で動詞につながる語だ(「に」でつながる語は含まない)とすれば、「適応する」は自動詞だ。他方、「適用する」は「...を適用する」という形をとるので、他動詞だ。(ただし、「.....に...を適用する」という形で、目的語のほかにもうひとつの対象を取ることが多い。) このような構造に注意すれば、両者が出てくる文脈は区別できると思う。名詞として使われる場合は、関連することばをつなぐ助詞が必ずしも一定でないのでややむずかしくなるが、「Xへの適応」(=「Xに適応すること」)と、「XへのYの適用」(=「XにYを適用すること」)は、なんとか区別できるのではないだろうか。

【医学・薬のほうの用語に「適応症」というものがある。この関連の話題になると「適応」と「適用」とは(区別がなくなるわけではないが)意味の境がなくなってしまうのかもしれない。わたしはこの分野の用語の使いわけはよくわからない。もし必要になったらあらためて勉強しなければならない。】

わたしのまわりで「適応」が現われる基本的文脈は、「生物が環境に適応する」というものだ。人間(の集団)も環境に適応する。地球温暖化の文脈で、人間社会がとる対策を大きく分類すると、そのひとつが「適応策」だが、そこで使われている「適応」の意味はこれと同じ流れに属する。

英語で、(わたしがよく出会う文脈での)「適応」に対応する語は、動詞 adapt、名詞 adaptationだ。動詞 adapt は自動詞として adapt to X が 「Xに適応する」にあたる使われかたと、他動詞として adapt X to Y が「XをYに適応させる」にあたる使われかたがある。(後者の日本語表現として「XをYに適応する」と言ってもよいかはむずかしい問題だが、わたしの規範としては、よくない、としたい。)

なお、adaptに対する日本語としては「順応(する)」もありうる。わたしは、生物個体(生物としての人を含む)の環境への応答には「順応」を使うことが多い。また、adaptive management は「適応型管理」でもよいと思うのだが、(気候変動への)「適応策」と混在する文章では「順応型管理」を使うことにしている。(ここでmanagementを仮に「管理」としたが、この用語選択も迷うところだ。)

(わたしがよく出会う文脈での)「適用」に対応する英語は、動詞 apply、名詞 applicationだ。動詞applyは他動詞としてapply X to Y が「XをYに適用する」にあたるのが基本的構造だと思う。自動詞として使われることもあるが、その場合に対応する日本語は「適用される」または「適合する」だろう。(「応募する」などの、意味の別の系列と考えたほうがよさそうな場合もあるが。)

ところが、逆に apply に対応する日本語としてはまず「応用する」が出てくると思う。わたしは「応用する」が適切なときはそちらを使っている。ある基礎原理を技術の現場に応用する場合、ある技術をそれが作られた本来の目的と違った目的に応用する場合などだ。しかし、ある技術を、その技術が作られた本来の目的のために使う場合は、「応用する」では変なので、「適用する」を使う必要にせまられる。「ルール」に関しても、ここで述べた「技術」に関してと同様なことが言えると思う。

なお、英語には動詞 adopt (他動詞)、名詞 adoption ということばもあり、adapt と adopt の発音は違うのだが、英語の音を日本語(その他、英語以外の言語)の音に置きかえて受け入れる際の個人差によって、まぎれてしまうことがある。そして、ややこしいことには、adopt に対応する日本語が「適用(する)」であることがありうる。ただし、これが最適な訳語であることはあまりなく、たとえば「採用(する)」のほうがふさわしいことが多いと思う。

意味の関連はないが、日本語の「てきよう」の同音衝突としては、「摘要」もある。わたしにとって、これは、ときどき読む必要が生じるが、自分からは使わないことばだ。「要旨」または「要約」で置きかえたほうがよいと思っている。

いちおう(一応・一往) と 一様

これと同じ音の連鎖からくる広い意味の同音異義語として、わたしが子どものころから認識していたものとして、「いちおう」と、「一様(いちよう)」がある。「適応/適用」の場合と違って、両者の意味が近いわけではないが、聞きとりでは同じ音に聞こえ、文脈で判断するしかないことが多いと思う。

「いちおう」は副詞であり、名詞を修飾するときは「いちおうの」という形をとる。「一様」は学校文法流に言えば「形容動詞の語幹」であり、名詞を修飾するときは「一様な」という形をとる。したがって、意味に踏みこまなくても文脈の構造で区別できるはずなのだが、「の」と「な」がまぎれやすいという問題は残る。

わたし個人にとっては、「いちおう」は、聞いて覚えたことばで、文字はあとで知ったが、今でも漢語の熟語というよりも話しことばの日本語の単語だと思っている。「一応」と書かれていることが多いが、「語源からは『一往』が正しい」という記述も見た覚えがある。こういう状況にある語については、文字づかいを選べる限りは、ひらがなで書くのがよいと考えている。

「一様(な)」は、数学・理科関係の文章を読んで覚えたことばで、漢語の1文字要素から組み立てられた熟語だと認識している。英語では uniform または homogeneous にあたる。「均一(な)」とは意味が部分的に重なる。

京王線京葉線

そういえば、同じ音の連鎖がまぎれる例がほかにもあった。「京王線」と「京葉線」だ。これはいずれも固有名詞(東京付近の鉄道の路線名)であり、文脈の構造上では同じところにくるので、意味に立ち入らなければ区別できない。

ふたつの路線は、線路としては 6 km くらい離れているが、一方に乗り入れる電車が他方の線路から 1 km 以内に近づくことが(両方の組み合わせで)あるので、文脈によってはとてもまぎらわしいことが起こる。できれば、こういう名まえのつけかたはしないでほしかったと思う。

京王線」の名まえは、「京王電気軌道」が(部分)開業した1913年にさかのぼる。「王」は八王子の略だったにちがいないが、「京王」ということばは、もはや要素を意識されずに、路線または会社の名まえとして定着していると思う。(そして、「慶応」との同音衝突はよく知られている。)

京葉線」は1975年に貨物線として開業している。この時期ならば、「京葉工業地帯」(あるいは「-地域」)ということばがおもに東京湾岸の埋立地をさして、よく使われていたから、この名まえの選択は無理がないものだっただろう。そして、国鉄の貨物線の「京葉線」と私鉄の旅客線の「京王線」とが同じ文脈に出てくることも少なかっただろう。まぎらわしさが生じたのは、京葉線の旅客営業が始まった 1986年だといえると思う。

もし京葉線が旅客鉄道として始まったならば、名まえが提案された段階でまぎらわしさが指摘され、別の名まえがつけられたのではないだろうか、と思う。たまたま、ものごとがこの順序で起こったので、こうなってしまったのだ。

You Know Park

もう30年近く前のことだったと思うが、今でも起こりうるだろうと思う。東京の本郷あたりを歩いていたら、英語で何かたずねられた。"You know" と聞こえたのだが何を言っているのかわからなかった。どうやら、ユーノウというところへ行く道をたずねているらしいのだが、こちらにはそのような場所の心あたりがなかった。ここで相手が文字を書いたものを見せてくれたのだったか、"park" ということばが補足されたので思いあたったのだったかは忘れたが、ともかく、その人は "Ueno" という字をそう読んでいたことがわかって、その場から上野へはどちら方面に進めばよいかを説明することはできた。

外国語の固有名詞を正しく読むのはむずかしい。わたしもこのくらいおかしなまちがいをしていることはあると思う。ただし、わたしは、言語の入門教材の初歩のところを読んで、その言語の主要な音韻と表音文字との対応を知っておくことを習慣にしている。それだけでは、音がつながった場合の変化や特定の語に特有の読みかたまで正確にはならないが、その言語の使い手にどの語であるかを推測してもらえる可能性を高めることはできていると思う。

デマケ - 出負け?

中央官庁の人を主とする会話の中で、「デマケ」ということばがとびかっていた。わたしには「出負け」と思えたが、それでは意味が通じるような通じないようなだった。

わたしも会話に加わる必要が生じた際に、これは英語のdemarcationからきたことばだと教えてもらった。

Demarcationと言えばわたしが思い出すのは「科学と科学でないものとの境界設定」だ。わりあい最近には「もうダマされないための「科学」講義[読書メモ]や「科学を語るとはどういうことか[読書メモ]伊勢田哲治さんが論じている。「線引き問題」という表現もある。わたしは学生のときPopperの著作やその関連のものをいろいろ読んだので[Mageeの本の読書ノート]、その境界の基準は仮説の「反証可能性」である、という説がしみついているが、今では必ずしもその説にはこだわらなくなっている。

科学哲学を別にすれば、DemarcationというよりもDemarcaçãoまたはDemarcaciónだが、15-16世紀にポルトガルとスペインが世界を二分して支配しようとした線引きだ。

日本の役所のデマケはそんな壮大な話ではない。新しい事業(たいてい「省」の予算規模の何百分の1かのものだが)を提案するとき、既存の事業との業務の違いや役割分担を明確にすることをさす。税金からの支出にむだがあってはいけないので、対象の重複を避けなければならないとされているのだ。

むだをなくすべきだというのはもっともだ。しかし、(たまたま出会ったものごとに関するわたしの印象にすぎないが)、近ごろの日本の役所は、他の役所や他の事業の領域にはみだすことをおそれるあまり、境界に近づくことさえ避ける傾向があるように思われる。結果として、複数の役所の仕事にまたがる課題は、どちら側もやる気を起こさず取り残されることが多くなる。この現象を「出負け」と呼びたくなった。「出ると負け」という意識のために両者不戦敗というなさけないことだ。

外国でも税金のむだづかいへの批判はあると思うのだが、アメリカの例をみると(わたしは日本の行政への批判に使えるほど確実な知識を持っていないが)、複数の役所の下で実質似たような仕事に予算がつき、現場どうしが連携して活動することがある。動き出してから役所どうしの事業計画を調整して複合効果があがるようにくふうすることもあるようだ。役所の業務範囲の境界が明確な線として見えないとき、アメリカでは、境界を越えることをおそれずに手を広げてしまい、あとで調整することが奨励されているように思われる。

日本の「出負け」は日本特有なのだろうか。わたしにはよくわからないが、外国の機関と仕事をしている同僚たちの世間話がもっともだとすれば、モンスーンアジア(東・東南・南アジア)では似た傾向があるかもしれない。ただしおそらくモンスーンとは関係ないだろう。人口密度の高い定住社会で、公務員の人数も多く固定した職務分担をもつことが伝統的に有効だったからなのかもしれないと思う。

公共部門で使える資源は限られているので事業間の重複を避けること自体はよいことだ。しかし、社会が求める役所の役割は、役所の組織ができたときや既存の事業が企画されたときとは変わっていくので、不明確な境界にかかるかもしれない仕事については「出負け」ではなく「出てから調整する」にしていく必要があると思う。

[2016-12-08補足] ことばの意味を考えてみると、「出負け」は出てから負けることにふさわしい。「出ないで負ける」ことは「でず負け」とでも言うべきかもしれない。

滞在強い

「空耳、空目、誤変換」の「誤変換」は日本語のキー入力から漢字への変換のまちがいをさすつもりだったのだが、言語間の機械翻訳の変換のまちがいも同類なので、この分類に含めることにしよう。

2013年9月30日、nofrillsさんによる「NAVERまとめ」の「英語圏で有名な『無料ウェブ翻訳』は、どうして日本語では使い物にならないのか。その一例」http://matome.naver.jp/odai/2138049314204219101 で述べられている件だ。

東日本大震災のあとまもないころに、スウェーデンのグラフィック デザイナー Viktor Hugossonさんが作った画像には、日本の人々への応援のメッセージが添えられていた。英語で「Stay strong.」というのはもっともなのだが、さらに日本語で「滞在強い」と書かれていたのだ。英語の「stay」「strong」のそれぞれの訳語をならべたものになっている。機械翻訳の結果を日本語の意味がわからないまま使ってしまったようだ。

Google translateでは「Stay strong.」は「強い滞在」となる。これは上記の訳語を、日本語としてありそうな順序にならべかえたものと考えられる。これは「滞在強い」よりもまずい(というnofrillsさんの意見にわたしも賛同する)。翻訳がうまくいっていないのにそれが読者に伝わらなくなるおそれがあるからだ。【ただし10月1日にわたしがためしたところ、同じようにやった場合の結果は同じだが、ピリオドなしの「Stay strong」だと「強いままでいる」となった。命令形ではないが動詞句の意味は正しくとれている。もしかすると、最近おおぜいの人がこの事例を試したのでGoogleのシステムがいくらか学習したのかもしれないが。】マイクロソフトのBing translator (中身はバベルフィッシュらしい)では「強力なご滞在します。」となるそうだ。これはもっとまずい。自動詞で「ご...になる」でなく「ご...する」という用語法はふつうでなく、それを正当化できる文脈も思いつかない。

しかし機械翻訳がみんなこの文を処理できないわけではない。わたしが、Logovista社のパソコン用有料ソフトウェアでためしてみると、「強い状態でいろ。」になった。また、nofrillsさんによれば、http://honyaku.yahoo.co.jp/ (Cross Language)では「強いままでいてください。」になるそうだ。これならば、日本語としての表現はともかく、意味はとれている。(なお、http://www.excite.co.jp/world/english/ (The 翻訳エンタープライズ)では「強く続けてください。」となるそうだ。これは命令法であることは認識できているが、意味がとれていない。)

この違いを、nofrillsさんは、日本語話者が開発にかかわっている翻訳エンジンではわりあいうまくいっている、と解釈している。しかし、この例の場合、おもな問題は、日本語ではなく、英語の構文の解釈にあると思う。

言語の文は、時間の順にならんだ単語の列であるとともに、文法構造に従った単語の配置でもある。違う言語の間では語順の違いがある。翻訳の際には、時系列と文法構造の両方を保つことはできず、少なくともどちらかを変えなければならない。

Google翻訳が始まったころに聞いた説明によれば、Google翻訳は、入力言語と出力言語の例文をたくさん集め、文法構造の解析をあまりせずに単語列と見て、意味の対応のデータベースを作っている(とわたしは理解した)。このしくみで、語順の近い(同じような文法的役割をする語が出てくる位置がほぼ同じ)言語どうしならば翻訳がうまくいくことが多いが(それでも否定表現の見落としで意味が逆になるおそれもあるが)、語順が大きく違う言語の間でうまくいかないことが多いのは当然だと思う。

他方、Logovistaのソフトウェアは入力言語の文法構造解析を重視するものだ。英語から日本語への機械翻訳には英語の文法構造解析が必要なのだと思う。ただし、文法構造の対応によって構成した訳文の語の順序は原文と大きく変わってしまい、時間軸上の情報の流れとしては不自然になることがある。わたしがLogovistaの出力を参考にして自分の訳文を作る際には、原文の情報の流れを復活するように、文法構造を変えてでも意味を大きく変えない表現をさぐることが多い。

Logovistaのソフトウェアは久野 翮(くの すすむ)博士の研究に基づいているそうだ。

わたしは少年のころ、まだパソコンがなかった1970年代なのだが、数学の応用の話題に関する本を読んでいて、機械翻訳をめざした自然言語の研究があることを知った。その中で例としてとりあげられていた、英語の「Time flies like an arrow.」という文はことわざとして知られたのと全然違った解釈もできる、という話題が印象に残った。おとなになってから確認してみると、これは計算機科学者のエッティンガー(Oettinger)博士による解説で、言語についての例は久野博士の研究にもとづくものだった。この例文の第2の解釈はわりあいよく知られていると思う。わたしも[別記事]の表題に使った。

ところがエッティンガー博士の解説には第3の解釈もあったのだ。第1の解釈ではfliesが動詞、第2の解釈ではlikeが動詞だが、第3の解釈はtimeが動詞だとするものだ。競走のような競技で時間をはかることをさす動詞で、日本語で「タイムをとる」というのにあたる。この動詞が命令法で使われていて、主語は明示されない you だと考えるわけだ。【考えてみるとこの解釈はさらに2つに分かれる。「like an arrow」はtimeにかかる副詞句かもしれないしfliesにかかる形容詞句かもしれないのだ。エッティンガー博士の解説で示されていたのはそのうち前者だったと思う。】

(Logovistaに限ることはないのだが)このような知識がある人が作ったソフトウェアならば、"Stay strong." という文に出会えば複数の文法構造の解釈を試み、そのうちには動詞stayが命令法で使われている可能性も含めるだろう。複数の解釈が可能な場合にどれを選ぶかは、完全に機械化はできず、人がかかわる必要があると思う。【わたしが昔もっていたLogovistaのソフトウェアでは機械出力の文法構造解釈がまちがっていてもユーザーが修正することができなかったが、今もっているものでは品詞を指定することができるようになっている。これが旧版と新版の違いなのか、安い製品と高い製品の違いなのかは確認していないが。】

文献

  • A.G. エッティンガー(Oettinger): 科学におけるコンピュータの利用。サイエンティフィック アメリカン 編 (1968), 遠山 啓 監訳, 宮本 敏雄, 松野 武 訳 (1971): 未来社会と数学 (現代数学の世界 6), 講談社, 233 -- 265. (このページ番号は単行本版のものだが、この本はブルーバックスでも出版された。)

改革開放?

近ごろ、(日本国内の)鉄道の駅で電車を待っていると、おそらく同じ録音の再生で、何度も、「カイカクカイホー」と聞こえるアナウンスがあった。

「改革開放」といえば中華人民共和国の1980年代の政治スローガンだ。ただし、わたしはその時期に中国に行っていないし、中国語の入門の授業を受けたのはそれよりも昔のことだった。だからわたしが聞いたのは北京音のgaige kaifangではなく日本漢音のカイカクカイホーだったのだ。中国の自然景観や歴史遺物を紹介するテレビのドキュメンタリー番組を見ると、ナレーションの中に何十ぺんと、「改革開放政策によってこの場所に外国の取材班として初めて来ることができました」とか、「この地域の人々のくらしは改革開放政策によって変わりつつあります」とかいうことばがはいるのだった。経済活動に関する自由はふえた時代だったが、報道に関する統制はなおきびしい面もあり、ドキュメンタリー番組を作る許可を得る際にはスローガンを広める媒体ともなることが条件だったにちがいない。

しかし今どきの日本の駅がこのスローガンを広める義務を負っているはずはない。

よく聞いてみると、アナウンスは「改札階方面行きのエレベーターです」だった。

確かに、駅は足が不自由な人も目が不自由な人も使うので、エレベーターがどこにあるかを声で知らせるのはよいことなのだろう。しかしそれにしても、エレベーターが自己紹介することばが1分くらいの間隔で繰り返されるというのは、続けてそのそばにいる人にとってはくどすぎるとも思う。(おそらく赤外線か何かで人のけはいがあるとアナウンスするしかけなのだと思うが、まわりに人がいる状態が続くこともあるのだ。)

また、「改札階方面」というのは、駅の職員が使っている用語なのかもしれないが、初めて聞くお客にとってなじみのある表現ではないと思う。ただし、お客がその場所をさす用語が統一されているわけではなく、各人にわかるまで説明しようとすると表現は相手によって変わりしかも長くなると思うので、目印がわりの定型アナウンスとしては駅という場に特有の符丁を使うしかない、ということなのかもしれない。

解氷

テレビのチャンネルを自然ドキュメンタリーに変えたら、「カイヒョー」ということばが聞こえた。

動物の話だったらヒョウ(豹)の一種かと思ったかもしれないが、そうではなかった。氷らしいものが出てきたので、海氷のことだと思った。【これは気候システム専門家は仕事でよく使うことばなのだ。多くの日本人にとっては「流氷」は知っていても「海氷」はすぐ出てくることばではないかもしれない。】しかし、場所は陸上で、どうも海岸ではないらしい。

場所は東シベリアのサハ共和国で、レナ川の水面が冬には凍っているのが5月ごろにとけるところを取材していたのだった。カイヒョーは「解氷」なのだ。この話は同僚が研究課題にしていたことがあるのでわたしはいちおう知っていたが、映像で見るのははじめてだった。氷の融解は徐々に進んでいるはずだが、岸から川のまんなかまでつながって動かない状態から、あちこちで割れた氷が流れている状態へのうつりかわりが急激なのだ。

【そして、川が南(低緯度側)から北へ流れているせいもあって、上流側の氷が早くとけるので、まだとけていない下流側に洪水を起こすことがある(このことは番組でも話題になっていた)。ただし小部分を人工的に破壊することで流出のタイミングを制御することもある(これは同僚の研究者から聞いた話)。制御は予測よりもむずかしいのが通例だがこれは反例か? (という、たまたま別に考えていたことに意識が向かってしまった。)】

これまでわたしは「解氷」ということばを聞いた覚えがない。氷がとける、あるいは割れる、という現象はあちこちにある。レナ川ほど大規模ではないが類似の現象は日本の川にもあるはずだ。それにはその小地域ごとには名まえがついているのだろうと思う。しかし、「雪どけ」の場合と違って、日本全国に共通する名まえはなく、いざ必要となると漢語の要素から「解氷」のようなことばを組み立てることになるのだろう。

「氷がとける」ことならば「融氷」ということばならば聞いたことがある(ただし、マスメディアだったか、専門の学会だったかの記憶はあいまいだ)。もしかすると「解氷」はそれとは区別され、氷がとけることよりはむしろ割れることをさしているのかもしれないが、それはこの番組の文脈に限った意味づけかもしれない。

ところで、この1年間にテレビでいちばんよく聞かれた「カイヒョー」は「開票」だろうと思う。ただし、この単語は選挙の日に集中的に現われ、ほかの選挙用語と共存する。みんなそう思っているから、選挙期間以外で孤立して現われた「カイヒョー」を「開票」と受け取ってしまう確率は低いと思う。

ぶんか

「文化」「文科」「分化」「分科」は4つともわたしの科学論には必要なことば。聞いて区別できないのでどれかひとつを残してほかのことばで置きかえたいのだが、なかなかよい表現が見つからないまま使ってしまっている。

(「文科」は自分が積極的に使う概念ではないのだけれど、制度や人々の認識を描写する文脈で必要な用語。)

かおずし

まだ国鉄だったか、JRになってからだったか忘れたが、東海道新幹線に乗っていたとき、車内から、駅のプラットホームの売店で売られている商品パッケージのおもてに「かおずし」という文字が見えた。弁当を売っていそうなところだったので、すし(鮨)の一種だろうと思った。人の顔のようなデザインになっているのかもしれないと思った。

あとで知ったところでは、その商品はお茶で、静岡県の名物として売るために「しずおか」という字が大きく書いてあったのだった。そういえばその駅は静岡駅ではなかったが静岡県内だった(たしか三島駅だったと思う)。

わたしは横書きを右から読んだ覚えはないし、もちろん縦書きを下から読んだわけではない。パッケージのデザインで、文字の配置は斜めになっていたと思う。縦書きのようにも横書きのようにも思えて、そのどちらと判断するかによって読む順序が逆になったのだ。

機会工学

「機会学会」という文字列を見かけたが、「機械学会」の誤変換だった。日本機械学会は実在するが、「機会学会」は実在しないらしい。しかし、いまどき、そういう学会があってもおかしくない。困ったことが起こる可能性に関する「リスク」の研究がさかんだけれど、うまくいく可能性に関する「機会」の研究もやるべきだろう。

実はわたしは、日本機械学会の次の大会に発表を申しこんでいる研究の共同発表者になっている。代表発表者が機械工学者であることはまちがいないのだが、発表内容は機械工学というよりも「機会工学」のほうがふさわしいかもしれない。「『日本はどういう種類の研究を推進すべきか』をどうやって決めようか」という話なのだ。「どういう研究の機会をつくるべきか」という話だとも言える。

dnの反対向き

Twitterでどなたかの経験談を目にしたが、わたしにも経験がある。アルファベットの小文字の今のような活字体ができて以来、いろいろな人が経験したにちがいない。

わたしの場合は(こまごました経験の記憶にしては珍しく)いつのことか特定できる。1982年だ。修士論文に入れる図を作っていたときだった。

数量の空間分布を示す図を計算機出力で作っていた。英語圏で作られたそのプログラムは、まわりよりも数値の大きいところに「H」、小さいところに「L」という文字を示すようにできていた。高気圧・低気圧、あるいは高温(暖気)・低温(寒気)ならばこれでよい。直観的でない数量についても、数値が「高い」「低い」と表現するものならばこれでよい。

鉛直方向の流れについても、もし上昇流が正、下降流が負だったらそのままでよいと思っただろう。ところが、わたしが使いたかった図に示された数値は「p速度」という量[2012-04-09の記事参照]で、下降流が正なのだ。「Hが下降流、Lが上昇流」というのはわかりにくいと感じた。しかし、表示する文字をさしかえられるようにプログラムを改造するにはまずプログラムの中身を理解しなければならず、そのときはできなかった(1年か2年後にできた)。プリンターから出てきた紙の上に、手がきで書いた文字をはりつけることにした。

上昇流のところは「up」でよいとして、下降流のところは「down」では場所をとりすぎるのでどうしようと考えた。そのとき、試作した「up」のラベルがたまたま逆向きになっていて、「dn」と読めたのだった。この文脈で「dn」とあれば「down」の略だと思ってくれるにちがいない。たしか、それを採用したと思う。

最近Twitterで見た経験談は、模型工作でせっかく印をつけたのに上下どちらかわからなくなってしまったというものだった。上向き・下向きを文字が正しく見える向きで示すならば、「dn」と書いた向きの逆が上向きなのだから、目的は達すると思うのだが、失敗談として語られていたところをみると、それとは違う「上」「下」の区別だったのだろう。