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日本語の文字づかいの議論をするカテゴリー「文字づかい」をたてます

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

 

このブログでは、日本語を、ひらがな、かたかな、漢字、ローマ字などの文字をつかって、どのように書くかについての議論を、たびたびしています。これまで、そのような話題の記事を、カテゴリー「多言語雑談」にふくめていましたが、あたらしく「文字づかい」というカテゴリーをたてることにします。

 

これから、日本語の文字づかいに関する記事は、「文字づかい」のカテゴリーにいれ、「多言語雑談」のカテゴリーには いれないことにします。すでに書いた記事も、これにあわせてカテゴリーを変更します。

 

文字づかいに関するものであっても、日本語以外の言語についての話題がおもになるものは、「文字づかい」ではなく「多言語雑談」のほうにいれます。

 

表意文字、表語文字

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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「漢字は表意文字か?」というような議論を見かけたので、考えを整理してみたくなった。

わたしは1960年代の子どもとして、小学校・中学校の「国語」の参考書で、「かな や ローマ字は表音文字、漢字は表意文字だ」と ならった。

なお、漢字の文字と意味との関連について、中国の古典に出てくる「象形、指事、会意、形声、転注、仮借」という用語を使いながら、例をしめされているのをならった。

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1970-80年代の学生として、言語学の、専門書というほどではないが専門概念を紹介する本で、漢字は「表意文字」ではなく、分類して名づけるとすれば「表語文字」だ、という主張を読んだ。今では、それは専門家の主流の認識らしい。

中国語の単語は複数の音節からなる場合もあるが、1音節の要素からできていることは明確だ。漢字は、この1音節の語要素それぞれを表現したものなのだ。意味が近くても、発音が似ていなければ、別の語要素として認識されるから、同じ字では書かれない。

言われてみれば、そうだと思う。

とくに「形声」文字は、そのたてまえどおりならば、「形」のほう(「意符」、多くの場合「へん」)は、意味のおおまかな分類を示していて、「声」のほう(「音符」、多くの場合「つくり」)は、発音を示している。おもにつたえられているのが意味と発音のどちらかといえば、発音のほうだろう。ただし、「音符」とされている部分が同じ字どうしで、意味の共通性が指摘されることもある。同じ「単語家族」(藤堂 明保 氏の著書で使われていた用語)に属する語要素が、同じ「音符」で書かれて、細分のために「意符」がつけられた、とも考えられる。

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では、意味をあらわす「表意文字」はないのだろうか。

いわゆる自然言語を記述できる文字体系としては、ないのだろうと思う。

記述対象を限定すれば、ある。数学記号は表意文字だと言ってよいだろう。

数学記号の部分集合とも考えられる算用数字についてみると、「8」は、日本語で「ハチ」と読まれても、英語で「[eit]」と読まれても、同じ意味をもっていると言ってよいだろう。

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しかし、日本語での漢字は、「表語文字」だと言ってよいのか、疑問も感じる。

同じ字が、音よみ、訓よみで、日本語の複数の語に対応する。訓よみだけでも複数あることがよくある。

日本語での漢字は、鋭い意味[注]での表語文字ではない。

  • [注] 「狭い意味、広い意味」という表現がさすのとだいたい同じことなのだが、わたしは、「鋭い意味、鈍い意味」という表現がよいと思っている。

「語をあらわす」ことから、どういう方向にずれているかを考えると、意味がだいたい同じならば、別の語でも、同じ文字であらわせる、ということだ。そのことに注目すると、日本語での漢字は「表意文字」だといえるかもしれない。ただしこれは「表意文字」ということばの鈍い意味の使いかただ。2節で中国の漢字をはずし、3節で算用数字を含めた、鋭い意味での「表意文字」ではない。「表語文字」という用語を鋭い意味で使いながら、「表意文字」のほうは鈍い意味で使って、分類を考えるのは、うまくない。

わたしなりに公平な表現をしようとつとめてみると、日本語での漢字は「鈍い意味での表語文字」であり、それを鋭い意味で示す分類用語は まだない、というのが妥当だと思う。

(タイの地名の) 母音の長短を書きわけるには

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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外国語由来のことばを日本語の中で書くとき、母音の長短の書きわけの問題がある。

たとえば、英語の場合、強く発音する音節ならば長短の区別が明確なのだが、弱く発音する音節では、区別がなくなってしまうので、日本語にとりこんで かたかな 表記するときには、発音にあわせて長音記号なしにするか、もし強く発音するならばなるはずの形にあわせて長音表記するか、という選択肢が生じる。

- 2 -
タイ語では、母音の長短は明確で、それはタイ文字での表記でも明確に表現されている。

【話がそれるが、タイ語ベトナム語とは、言語の系統はちがうそうだが、音の響きも母音や子音の体系も似ている(と、わたしには思える)。しかし、ベトナム語には、母音の長短の区別は(少なくとも初歩で学ぶべきものとしては)ない。日本語に移す場合、母音で終わる音節を長音あつかいすることがあるが、子音で終わる音節との長さがだいたい同じになるようにしているのだと思う。】

しかし、タイ語の母音の長短は、日本語にはあまり反映されていない。

たとえば、タイ北部のチエンラーイ(2018-06-29現在、洞窟で少年たちがゆくえ不明になっているのが、チエンラーイ県)。ラーイとのばすのが正しいのだが、日本語ではほとんど「チェンライ」になっている。

【チェンかチエンかという問題もあり、わたしはまよったすえに「チエン」と書くことにしている。この件は日本の国語学用語を借りれば「拗音」の問題で、ここでは深入りしないことにする。】

ひとつの理由は、外国語の地名を日本語かたかなにするとただでさえ長くなるうえに、長音の音節はかたかなで2文字とるので、文字数が多くなる。たとえ正しい名まえを知っていても、短縮したくなる。

もうひとつは、たとえタイの公的機関や研究者がつくった資料を使っても、英語などのローマ字表記の資料に頼るかぎりでは、母音の長短がわからないことだ。

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タイの人びとによるタイ語のローマ字表記の方式は、かならずしも一定しない。

ポピュラー音楽の歌詞カードで、英語の発音で近似したらしい表記を見たこともある。

しかし、国の役所による地名の表記に関するかぎり、一定の方式で統一されている。(王立アカデミーによる標準があるそうなので、それだと思う。) それは、タイ文字からの単純な転写(transcription)ではなく、それよりはだいぶ表音的なものだ。

タイ文字はインド系の文字で、タイ語では同じ音になってしまってもサンスクリットでちがう音をあらわしていた文字の区別をひきついでいる。日本語の歴史的かなづかいと似た状況にある。

しかしローマ字表記では、タイ語の発音で区別されるものだけを区別する。

アルファベットに補助記号をつけることはない。母音の種類が5つよりも多いから、1つの母音を複数の文字をならべて示す場合がある。その部分だけ、役所による地名表記どうしでも、ゆらぎがある。たとえば、標準にしたがえば mueang となるところが、muang と書かれていることが多い。([多言語雑談「たくさんの府中」)参照)。

日本語への転写に向けて重要なことは、この標準方式では、母音の長短の区別がなくなってしまうことだ。(声調の区別もなくなってしまうが、これは日本語でも表記されない。)

なお、人名のつづりは、必ずしもこの方式にしたがっていない。わたしの知るかぎり、本や論文の著者名のローマ字表記では、サンスクリットに由来する歴史的区別を残した方式が使われている。

【長音の問題とは関係ないのだが、韓国のローマ字表記の状況もタイと似ている。国の役所による地名の表記は一定の標準にしたがっているが、人名の表記には別の事実上の標準があるようであり、その他の世間で使われるローマ字はまたちがうこともある。ただし、韓国の場合、英語で論文を書く人の著者名ローマ字表記は、英語で似た発音になるつづりをあてたもののようである。】

ローマ字表記の資料に依存するかぎり、タイの地名の母音の長短はわからない。

わたしはタイ語はごく初歩を勉強したにすぎないが([2012-03-16 カチャタナパマヤラワ]参照)、地名のタイ文字つづりをローマ字つづりとならべて示されれば、ローマ字つづりのどの母音が長音であるかを指摘することはできる。(ただし、タイ文字がいわゆる活字体のフォントで鮮明に印刷されていることが必要だ。手書きふうのフォントだったり、不鮮明だったりすると、判読できない。)

タイ文字だけでじゅうぶんかというと、そうでもないと思う。タイ文字はインド系文字で、子音字単独で子音に母音 a が続く音列をあらわす。ほかの母音が続くならば母音記号をつけてあらわす。母音がない場合は、母音がないことを示す記号をつけてあらわすのが原則なのだが、実際にはこの記号が使われていないことが多い。そこで、たとえば kra なのか kara なのか、つづりだけでは区別できない。

そこで、タイの地名をかたかな表記する際には、ローマ字資料とタイ文字資料を併用することをおすすめしたい。

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考えてみると、日本の地名を、日本語圏の外の人に伝える場合も、タイの場合とほぼ同じ状況だ。

日本語には母音の長短がある。短母音は1拍、長母音は2拍の時間をかけて発音する。

ローマ字表記では、本来は長音は補助記号をつけて区別されるのだが、英語などに引用される場合、そのまま補助記号なしとなり、長短の区別の情報が失われることが多い。

日本語の地名の母音の長短を正しく伝えるには、ローマ字資料だけに頼っていてはだめだと思ったほうがよい。(注意深く補助記号をつけたローマ字資料ならばだいじょうぶかもしれないが、かな・漢字の日本語を読まない人ではローマ字表記の品質を判断できないだろう。)

日本語の かな だけでも読めれば、ローマ字表記と かな 表記を併用すれば、母音の長短を確実につかむことができる。

かな表記だけでも、ほぼじゅうぶんなのだが、「う」が長音表記なのか独立の母音なのか、という、あいまいさが生じる場合もあるので([わたしが出会った問題な日本語「コーリ / コウリ」]参照)、ローマ字表記も併用したほうがよいと思う。

生徒、student、学生

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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だれかが大学生をさして「生徒」と言うと、「それはまちがいだ」という指摘がされる。確かに、公式な用語では、大学生は「学生」であって「生徒」ではない。非公式な会話でもそれにあわせたほうがよいこともあるだろう。しかし、わたしの個人的語感では、「学生」と「生徒」とは、完全に同じ意味ではないものの、意味のかさなりが大きく、気分だけで使いわけてよいことが多いものだと思う。非公式な文脈で大学生をさして「生徒」というのを(逆に高校生などをさして「学生」というのも)「まちがい」だと決めつけるのは、ことばを使う自由をせばめる、よくないことだという気がするのだ。

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日本の制度上の用語として、小学生は「児童」、中学生・高校生は「生徒」、大学生は「学生」とされている。その根拠は「学校教育法」という法律だ(と聞いているが、わたしはまだ自分でたしかめていない)。なお、高専や専門学校の場合はどう言うのかも、わたしは知らない。

これを前提として、大学という組織の公式文書では「学生」とすべきというのはもっともだと思う。授業の「シラバス」などは、原稿は教員が書くだろうが、発表する責任は大学にあるから、用語は大学の公式文書にあわせるべきだろう。

他方、個人的な会話では、制度上の用語に合わせる必要はないと思う。

授業のなかで使う用語は、制度上の用語に合わせる必要があるかどうか、微妙なところだと思う。

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わたし個人の「生徒」などのことばに関する感覚は、子どものころから、次のように発達してきた。

小学生のころ、小学生は「生徒」でもある、と思っていた。逆に「生徒」ということばで思いうかべるのはおもに(学校にいるときの)小学生だった。「生徒」ということばを思いうかべるきっかけとして、童謡の「すずめの学校」や「めだかの学校」が重要だった。どちらでも、「生徒」は「先生」と対照されて出てきた。(「児童」ということばがあることを知って、自分も「児童」にふくまれるのだろうとは思ったが、日常に自分が「児童」であると意識することはなかった。)

中学生のころ、中学生は「生徒」であると思っていた。(「学生」であるとは思っていなかった。「学生服」を着てはいたのだが。) 中学1年から ならいはじめた(学校での)英語では、中学生は junior high school student であり、student のうちだった。大学生も、college student であり student のうちだった。英語の student は日本語の「生徒」と「学生」の両方にあたる、と理解した。その理解が身についたあと、わたしが使ったものよりも少し古い英語の教科書では「生徒」に対応する英語を pupil としているものがあることを知った。しかし pupil は自分が使う(ように訓練される)単語には はいらなかった。(大学生ぐらいになって、語彙がだいぶふえたときに、pupil もそのうちにふくまれたが、自分にとって student は日常語だが pupil はそうでない。)

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いまのわたし個人は、つぎのような語感をもっている。

「児童」は「子ども」と同じだ。発達段階をさすことばであって、役割をさすことばではない。(小学生でも学校の場での役割をさす場合は「生徒」が妥当だとわたしは思う。)

「生徒」は、「先生」あるいは「教師」と対になる役割だ。ただし、学校の場での役割をさす場合と、学校などの制度と関係なく師匠との関係をさす場合がある。そのうち師匠との関係のほうは、「弟子」とだいたい同じだ。

「学生」は、学問に取り組むという役割であって、原理的には教師は関係ない。(しかし、教師と対になる役割をさす場合もあり、その場合は、「生徒」とはほぼ同意語だと思う。)

わたしが実際に使う用語は、このような語感によるものと、制度上の用語とがまざったものだ。

「チバニアン」でよいのか?

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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この記事は、[前の記事]に関連するが、前の記事が入門的解説を意図したものなのとはちがって、この記事は個人的感想を書いたものだ。雑談であって結論はない。

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近ごろは多くの自然科学系の国際学会の作業言語は英語になっている。IUGS [前の記事参照] の場合もそうなのだと思う。しかし、新しい学術用語をつくるときには、(英語、フランス語、ドイツ語が同等に重要だった20世紀初めごろまでの習慣のなごりだと思うが) ラテン語で構成しようとする考えも続いているようだ。

地質時代の英語名は、「紀」「世」「期」の前に、形容詞がつく。その形容詞は、昔からあるものはさまざまな形をしているが、新しくつくる場合は、地名のあとに -ian をつけたものに、だいたい統一されているようだ。

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千葉(Chiba)に -ian をつけるとすれば、すなおには、Chibaian になる。しかし、それは認められにくいらしい。母音 a と 母音 i がつながる hiatus (言語学での意味であって、地質学での意味ではない)がきらわれるのかもしれない。また、ラテン語では(わたしは正確に知らないのだが)、「ai」という音のつながりは「ae」に変えられることになっているようだ。そうすると Chibaean になる。ところが、英語では「ae」は「e」と同様に発音される。Chibaean は英語では「チビーアン」のように読まれるだろう。これでは、日本語話者にはおもしろくない(と感じる人が多い)と思う。

Chiba の最後の a を語尾とみなして取り除いて -ian をつければ Chibian になる。ラテン語や英語としてまずいことはないと思うが、日本語話者にとって「チビアン」はおかしくひびくだろう。

Chibaと -ian の間に子音をはさむことが許されるとすれば、何を入れるだろうか。わたしはラテン語の語の組み立てかたをよく知らないが、形容詞をつくるときによく出てくるのは s だと思う。(英語の「Japanese」に s があるのも、s をふくむ接尾語が使われやすいということなのだと思う。) 更新世のジェラシアン期の名まえは Gela という地名にちなんで Gelasian となっている。同様に Chiba から Chibasian という形はよさそうな気がする。ところが日本語でこれは「千葉市」を連想させてしまう。模式地の候補地があるのは千葉県ではあるが市原市なのだ。「チバシアン」はうまくない。

(わたしの推測だが)たぶんそういう考慮もあって、GSSP候補地をIUGSに提案した日本の研究者たちは n をはさんだ Chibanian という形を採用したのだと思う。(時代名もすでにIUGSへ提案したのかどうか、わたしは知らないのだが。)

しかし、Chibanian と聞くと、わたしは、Chibania という地名があることを期待してしまう。「千葉」を知らない多くの人がそう思うだろうと思う。わたしはそういう理由で「チバニアン」もうまくないと思う。ただし、逆手にとって、「ここが Chibaniaだ」として売り出すのならよいかもしれない。

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しかし、ほんとうに、母音で終わる地名のあとでも、-ian でなければならないのだろうか。

地質時代名の形容詞を見ると、-ian でない -an で終わっているものも見られる。地質学の歴史の中で古い時期に決まったものは今とちがった命名規則なのかもしれない。しかし、原生代(古生代よりもまえの時代)の「紀」の名まえは最近決まったものだろう。原生代のうちいちばん新しい(現在に近い)「紀」は Ediacaran とされている。これは Ediacara という地名にちなんだものだ。すると、-a で終わる地名に対する形容詞は -an でもよいのではないか?

もしその形が許されるとすれば、千葉にちなんだ時代名は、Chiban でよいと思う。「チバン」では「地番」などと同じ音になってしまうけれど、日本語の中では「千葉期」「千葉時代」などと呼べばすむだろう。

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ところで、Chiba という文字列は、ローマ字(ラテンアルファベット)を使う主要な言語のあいだで、読みかたがさまざまだ。[別記事「Chiba行きの電車」]に書いたように、イタリア語だと思って読めば「木場」、フランス語だと思って読めば「芝」、ドイツ語だと思って読めば「ひば」になってしまう。英語だと思って読めば、たぶん「チャイバ」だろう。ただし、別記事には書かなかったが、中国語(ピンイン)とスペイン語も含めれば、「チバ」と読むのが多数派ではあるのかもしれない。

千葉県には申しわけないが、わたしは、地名に由来するが地名を離れて使われる学術用語には、このように読みかたがまちまちに化けてしまう地名は、なるべく使わないほうがよいのではないか、と思う。

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日本語のローマ字のつづりかたを問題にすれば([2017-03-21の記事]参照)、「チバ」を Chiba とつづるのはヘボン式で、日本式や訓令式では Tiba だ。わたしは日本語のローマ字つづりは訓令式が標準だと思っているので、「チバ」ならばTiba とするべきだと言いたい。

しかし、(松山(Matuyama)基範の時代には、少なくとも物理学関連の学者のあいだでは、欧文で署名するときも日本式が多数派だったのだが)、今では、日本語の単語を欧文にまぜて書くときのつづりかたはヘボン式が圧倒的に多いだろう。訓令式にしようという意見は少数意見にしかなりそうもない。そこでむしろ、「チバ」以外の地名を使ったらどうかという意見に傾く。

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千葉県は、旧国名で言うと、上総(かずさ)、下総(しもふさ→しもうさ)、安房(あわ)の三つをあわせたものにだいたい一致する。

模式地候補地の地磁気逆転の層準は、このうちの「上総」にちなんだ「上総層群」という地層の中にある。また、模式地候補地の場所は、上総の国に含まれるらしい(わたしの確認がまだできていないがこれからする予定)。

そこで「上総」にちなんだ名まえが考えられる。Kazusa も「-a」で終わっているから、もし「-ian」でなく「-an」でよいならば、Kazusan (カズサン)とするべきだろう。「-ian」にしなければならない場合は、2節と同様のことを考えなければならないが、Kazusian (カズシアン) でも、おかしいことはない。

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地質時代の名まえを考えるときには、人間の歴史の中でなるべく古い時代の地名を使おうとする傾向もあるようだ。

そうすると、上総・下総にわかれる前の「ふさのくに」にちなむほうがよいような気もする。Fusa も -a で終わっているから、「-an」でよいならば Fusan (フサン)となるが、「-ian」にしなければならないならば、2節と同様な問題がある。

ただし、Chibanian の場合は、n の由来が不明だが、もし Fusanian (フサニアン)とする場合には、n は「ふさのくに」の「の」から来たという言いわけができるかもしれない。

なお、訓令式ならば「ふさ」は Husa だ。

しかし、わたしは、古語に関しては、ハ行は f でつづるのが順当だと思っているので(また、16世紀のポルトガル人も当時の日本語のハ行を f でつづっているので)、ここは Fusa でよいようにも思う。

しんす - た

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

この記事はまったく個人的覚え書きで、知識を提供するものでも、意見を述べるものでもありません。

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表題の「しんす」と「た」のあいだには、便宜上、文字コードのうち古くからあったASCIIにもある「ハイフン」兼「マイナス符号」の字を入れておいたが、そこで意図しているのはダッシュなのだ。横書きならば横、縦書きならば縦の棒だ。「A - B」で、「AからBまで」、あるいは「A・何か・B」という連鎖、あるいは「題名A、副題B」のような意味になりうる。

(Unicode文字コードにはダッシュがあちこちに含まれていて、ブラウザやエディタのソフトウェアや、端末として使っている機械にインストールされているフォントなどによって、正しく表示されることもあるが、化けたり、「不明な文字」あつかいされたりすることがけっこう多い。それでわたしは便宜上、ハイフン・マイナスの文字を使うことが多い。それを2つつなげて1つのダッシュをあらわすこともある。)

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「A・何か・B」の例になるが、「しんす - た」のダッシュのところにひらがな1字がはいる文字列は、今年までの約15年間、毎週、あわせて何千回も見ている。職場のもよりだった駅名なのだ。JRの駅だから、駅名の掲示は、ひらがなが大きく書いてあるものが、漢字のものよりも多い。駅名を見た印象は、おもに、ひらがなで見た印象になる。

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ところが、わたし個人に関する限り、ダッシュのままの「しんす - た」のほうが、たぶん見た回数が多いのだ。わたしが、30年以上にわたって、そのうち半分くらいの期間、ほぼ毎日いた家の、いつもとおるところにあった (見ても意識したとはかぎらなかったが)。

その文字列は、本の背表紙にあった。わたしの親が持っていた、あいうえお順、8分冊の百科事典だ。約15年前に捨ててしまったので今は家にない。事典の名まえも思い出せるがここでは省略する。各分冊の見出し語の範囲のほうが鮮明に記憶に残っているのだ。ダッシュの使いかたとしては「AからBまで」の例だ。事典があれば背表紙を見ればよいのだし、なければ役にたたないのだから、覚えても得になることはないのだが、覚えてしまった。

  • 1. あ - おそ
  • 2. おた - きり
  • 3. きる - さい
  • 4. さう - しんし
  • 5. しんす - た
  • 6. ち - にほ
  • 7. にま - ほた
  • 8. ほち - わ

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辞典にかぎらないのだが、文字で書かれた情報を、検索しやすい形でならべたいとき、「辞書順」に整列することが多い。

辞書順とは、英語などラテン(ローマ)アルファベットを使う言語では、アルファベット順(abc順)だ。ラテンアルファベットを使う言語のうちでも、補助記号のついた文字の扱いなどについては、それぞれの言語ごとにちがった習慣があることもある。(たとえば、ドイツ語の ä は ae に準ずるが、スウェーデン語の ä は z よりもあとにくる文字とされる。)

今の日本語では、辞書順といえばほとんどの場合に五十音(あいうえお)順、例外的にローマ字のアルファベット順だろう。近世(江戸時代)から近代の早い時期(明治)には、いろは順も使われた。(わたしは、1960年代、大正生まれの祖母のところに、いろは順の日用辞典があった、という記憶がある。)

五十音順でも、濁音、拗音、促音、長音の扱いは、それぞれの辞書ごとの約束により、ほかの辞書とは必ずしも同じでない。また、複合語を、構成要素の語ごとに配列するか、全体を文字列と見てならべるか、という問題もある。

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近ごろ、事典類はディジタル版が多い。ディジタル版では、分冊にする必要がない。

今でも紙版の事典が出版されていて、約1000ページ以上になる場合に、分冊が見られる。日本語ではそういうものがあらたに出ることは少なくなったと思う。

英語では、専門分野別のencyclopediaというものがいろいろ出版されている。大学の図書館などに置かれて学生が調べものに使うらしい。数冊(たとえば4冊)に分冊されていることがよくある。主題で分割していることもあるが、アルファベット順の分冊もある。次に述べるような製本上の制約がきびしくないらしく、切れ目は頭文字1字のことが多いようだ。

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「しんす - た」の場合は、たったの8冊なのに、五十音(濁音などを除いた かな の文字種では46字)の頭文字で分けられず、3文字まで使っている。

その事典の項目を見ているのではなく、わたしの頭で考えた例だが、「しんし」と「しんす」の間で分けるということは、たとえば、前の巻の最後の項目が「壬申の乱」(じんしんのらん)で、あとの巻の最初の項目が「進水」または「浸水」(しんすい)、というようなことになっているはずだ。(たしか、濁音は清音とひとまとめにしたうえで、グループ内では清音のあとにおく、という約束になっていたはずなので。)

なぜ、3文字まで使うことになったか考えてみると、おそらく、1冊ごとのページ数の制約がきびしかったのだろう。

一方に、冊数をなるべくふやしたくない、あるいは一度決めたら変えたくない、という要請があるだろう。

他方に、各分冊のページ数の限界があるだろう。製本して、頻繁に開いてもこわれないものにする必要がある。1冊ものだとがんばって厚くすることもあるが、分冊ではあまり無理ができない。

そして、本は、大きな紙に印刷して、折って、切ってつくるので、紙面としてのページ数(ページ番号がつかないページも含む)は、一定の数の倍数であることが望ましく、そうでないと空白ページができて紙がもったいない。一定の数は、たぶん、2のべき乗、たとえば16ページか32ページだろう。

この百科事典の場合、たぶん、第4巻は「さ - し」の予定だったのだろう。それでも、かなの文字種 46 のうち 2つだけ(濁音を清音と同一視した場合だが)で、事典の紙面の8分の1をしめるのは、わたしにはちょっと驚きに感じられる。しかし、原稿を集めてみると「さ - し」は1冊におさまらない分量になった。そこで、「さ」の初めの部分を第3巻、「し」の終わりの部分を第5巻にまわすことになったのだろう。

ソンタク (忖度)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「そんたく」ということばを、去年(2016年)ごろからよく聞くようになったと感じる。正確に言うとわたしは「聞く」というよりもネット上で文字を見ている。その文字は漢字の「忖度」である場合もあれば かな の「ソンタク」である場合もある。

- 2 -
わたしは、1960-70年代の子どものころに、親やその世代の人たちが使っていたことばのうちに「そんたくする」というものがあったのを、なんとなく覚えている。意味はあまりよくわからなかった。また、そのころ、おとな向けの本(新書本などだが)を読むことがあったから、そこで「忖度」ということばに出会っていたかもしれないが、実質的に読みとばしていて、印象に残っていない。

- 3 -
文脈に関係なく「ソンタク」と聞けば「日曜日」かと思う。日曜日は英語で Sunday なのと同様にドイツ語では Sonntag なのだ。ドイツ語の標準的な発音では語頭の s は有声音になるから、かたかな による近似は「ゾンタク」が適切だろう。しかしわたしはスイスのドイツ語圏に滞在したとき、語頭の s が無声音になることが多いのを聞いている。地方語の発音なのかもしれないが、この位置の s が有声音か無声音かの区別を気にしていないようだった。その感覚を覚えてしまったので Sonntag と「ソンタク」とが結びついてしまった。

なお、オランダ語では zondag だ。オランダ語の文字と有声音・無声音の対応をわたしはよく知らないのだが、辞書の発音表記を参考にかたかなで近似すると「ゾンダク」あるいは「ゾンダハ」だろうか? そして、「博多どんたく」はこの zondag が「祭日」のような意味に転じたものだそうだ。はじめの音が d では日曜日よりはむしろ火曜日か木曜日の名まえに似て聞こえると思うのだけれど。もはやオランダ語を知らない日本語話者のあいだで伝わったうちに変形したということなのだろう。

- 4 -
わたしは「忖」という字をまだ自分の手で書いたことはない。わたしが使っているパソコンのOS常備の日本語入力で「そんたく」を変換すると選択肢に「忖度」が出てくる(ほかの漢字列は「尊宅」だけだ)。それで「忖」という字を知った。

これは「りっしんべん に 寸」の形声文字にちがいない。りっしんべんは「心」であり、人の心理に関することをさすのだろう。「寸」は音がスンに近いことを示すのだろう。「村」も同類だろうことに気づけば、ソンという読みもありうると思う。「寸」はいくらか字のあらわす語の意味もになっているのではないか。藤堂明保氏のいう「単語家族」の考えを借りれば、「寸」の単語家族に属するのではないか。その意味がもし「少し」だとすれば、「忖」は「気持ちを少し動かす」ことだろうか? (これは言語学のしろうとのわたしが新たに調べもしないで想像したことにすぎないので、知識として信頼しないでいただきたい。)

「忖」は「村」のほかに「付」と似ている(まちがいやすい)けれども、「付」の音は全然ちがう。そして「付」は形声文字の音符としてもフの音をあらわしているようだ。同じ形を含んでいても「付」は にんべん と「寸」から成り立っているわけではないのだろう。

- 5 -
わたしはまだ「忖度」ということばの意味をよく調べていない。ほぼ「推測」と同じ意味だと推測している。ただし対象が限定されているだろう。(たとえばここの「...と推測している」を「...と忖度している」と置きかえるのはまずいようだ。)

近ごろの時事的な話題で使われている「忖度する」は、「権力をもつ人がしてほしいことを、(相対的に権力が弱い人が)推測する」という場面で使われていると思う (これも、わたしが 使われている文脈から推測しただけなので、確実ではない)。「権力をもつ人」というのは、政府や企業の長になっている人の場合もあるし、許認可権をもつ人の場合もあるし、名目上は出てこないが裏で決定権を握っている(らしい)人の場合もある。

そして、「忖度する」は、推測するところまででととまらず、権力をもつ人がしてほしいだろうと推測されることを実行するところまで含めた意味に使われていることもあるようだ。(おそらく語源からは正しくない使いかただと思うが。)

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何かのかかわりのある他人の意向を推測することは、人間関係をよくするのに役だつことも多く、一般にはよいことなのだろう。しかしそれが義務のように感じられる状況はよくないと思う。

権力関係がからんで、人びとが権力をもつ人の意向を推測して行動するのが当然になっているような状況には、いくつもの危険がある。

ひとつは、推測はまちがうこともあることだ。まちがった推測にもとづいて行動したら、権力者にとっても、おそらくほかのだれにとっても、得にならない。

もうひとつは、権力者が命令するならばその責任がはっきりするし、それを制限するしくみを準備しておくこともできるけれども、意向を推測して行動するのでは、だれの責任を問うべきかがわかりにくくなることだ。

「忖度」が必要だと感じられる状況はなるべくなくすべきなのだと思う。権力関係をなくせばよい場合もあるだろう。権力関係がなくせないときは、意向が明示されるようにし、明示されない意向は無視されて当然とするべきなのだろう。

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わたしは「忖度」ということばを自分からは使いたくない。

しかし、このことばが使われている議論に参加したり、他の人がこのことばを使っている議論を参照して議論を組み立てたりするときには使うかもしれない。また、「権力をもつ人の意向を推測して行動することが求められるような社会のしくみ」を短く略して述べたいとき「忖度の構造」などと言ってしまうことはありうる。

また、わたしは、自分が使う字の種類をあまりふやしたくないので、この語でしか出てきそうもない「忖」という字はできれば使いたくない。「ソンタク」ですむときは、そう書きたいと思っている。

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ある政治家が「国民の思いを忖度して...」という表現を使ったそうだ。それを伝えた人は、その表現は変だと思っているようだった。わたしも、変な気がする。

国民主権であっても、また、国民は実際に選挙によって政治家に(いくらかの)権力をおよぼすことができる立場ではあっても、国民は、上の5節で述べたような「権力をもつ人」にはあてはまらない(と感じられる)のだと思う。(ただし、「権力をもつ人」ということばを含む5節の説明はわたしが勝手に考えたものであって、これに合わない使いかたをまちがいだと言えるような権威はない。)

云々 (うんぬん) と「でんでん」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2017年1月24日、総理大臣が国会での答弁中に「でんでん」と言ったが、それは原稿に「云々」と書いてあったのを読みまちがえたのだった、ということが話題になった。

世間でその話題は、「このくらいの漢字を正しく読める能力がない人を総理大臣にしたのはなげかわしい」という価値判断をともなって伝えられることが多かったと思う。わたしは、これから述べるように、その判断にはあまり賛成しない。

問題にすべきなのは、総理大臣は「他の人が書いた原稿を読むが、それが発言者自身のことばとして受け取られる」立場なので、そのことを意識して発言の準備をする必要があるのだが、現実には総理大臣自身にもまわりの人にもその意識が薄かったことだと思う。

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他の人が書いた原稿を読むという構造のことはよくある。

そのうち、アナウンサーがニュースを読む場合や、ナレーター (職業としてはアナウンサーだったり俳優だったりするが)がテレビのドキュメンタリー番組の解説文を読む場合などは、原稿を書く人と声に出す人とが別であることははっきりしている。内容にもんくがあるならば、それは、声に出した人ではなく、原稿を書いた人に向けられるべきだ。

しかし、組織の責任者が組織を代表して発言する場合もある。社長が会社を代表して発言する場合などだ。小さな会社ならば、社長個人が思ったままのことを話し、そのまま会社の主張として受け取られてもかまわないかもしれない。しかし、ある程度大きな組織になると、会社に関する事実の情報は社長の頭の中におさまらなくなり、それを対外的に発表する前には会社のしかるべき部署の担当者が資料を確認して原稿を準備する必要があるだろう。社長は社員が書いた原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、会社の外からは、会社の対外的発言であると同時に、会社の代表者である社長の発言でもあるとして受けとられるだろう。

政治家の場合も同様だ。総理大臣の場合だとかかわる組織が多様なので、ひとつの省を担当する大臣の場合を考えよう。大臣が省を代表して発言する場合、おそらく省の官僚が用意した原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、省の意思表示であるとともに、大臣の意思表示でもあるとして受けとられるだろう。

自分のあたまにはいりきれない内容を、自分のあたまから出てきたかのように話し、その内容について責任をとらされる、というのは不条理だとも思える。しかし、現代社会は複雑になって、なん人かの人をそのような不条理な立場に置かないとまわらなくなってしまったのだと思う。その立場に置かれた人は、それを自覚して行動する必要がある。ただし、その当人にだけ責任をおしつけるのではなく、まわりの人も目くばりする必要があるのだと思う。

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自分の発言となる原稿を他人に書いてもらったならば、実際に発言するよりも前に、読みかたがわからないところがないように、文章全体に目をとおしておくべきだ。

大臣などの人たちは、たぶん、そういうことはしていると思う。(直前に原稿がさしかえられた場合は間に合わないかもしれないが。)

下読みを、実際に声を出すか、そこまで行かなくても口やのどを動かす形でしていれば、もし「云々」という字の読みかたを覚えていなければそのことに気づき、実際に発言するときまでに調べておくことができただろうと思う。そうならなかったのは、下読みが黙読だったからだろう。黙読では、専門用語や固有名詞などの見慣れない文字列については読みかたを意識するだろうが、珍しくない文字列については読みかたがわかっていなくてもわかっていると誤認するかもしれないし、自己流の読みかたをしていたら修正されないだろう。

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日本語は、60年ほど前から、「うんぬん」ということばはあるが「云」という字は使わないほうに動いてきているのだと思う。その中で育った人が原稿の「云々」を読めないのはありがちなことだ。読めないことに気づき、(辞書をひくなり人にたずねるなりして)読みかたを調べることに進めばいいのだと思う。

わたしは今の総理大臣よりも少し若いが大まかに同世代だ。1960年代の小学生として、わたしが学校の国語の時間に習った字のうちに「云」はなかった(はずだ)。しかし、そのころ読んだ、親の世代の人の書いた文には「言う」と同じくらい「云う」があった(「同じくらい」というのは頻度が桁違いでないという意味で、たとえば半分くらいの頻度だったかもしれない) 。しかし学校の国語では、両者の発音は同じで意味も重なるので同じ語とみなされ、文字での表記は「言う」がよいとされた。(ただし「...というような」などの補助的な使われかたでは全部ひらがなの「いう」がよいとされた)。日本語の文章を書くとき「云」という字を使う機会は、小・中学生のころはほとんどなかった。

「云」という字の存在は「雲」という字の部分として知った。「雲」はまず「くも」として習った。わたしは小学生のころから気象の入門書を読んでいたから、「雲」の字を音読みの「ウン」で含む語があることも知ったのだが、とくに気象に興味がない子どもはそれを覚えなかっただろうと思う。また、わたしは「雲」が形声文字であり「云」がその音をになっていることも知った。

そして中学生のころ、学校で習ったわけではないが、中国(中華人民共和国)では漢字を日本の当用漢字新字体よりももっと簡略化した「簡体字」で読み書きしていることを知った。簡体字の一覧表(たしか、日本で出された漢和辞典『新字源』の巻末にあったものだったと思う)で「雲」の簡体字が「云」であることを知った。さらに、何かの本で、古代には「雲」の意味で「云」という字が使われていたという話も読んだ。わたしにとっては、「云」は「雲」を意味する表意文字だと感じられるようになり、「いう」との連想は弱まった。(「云々」とあれば「雲がたくさんあること」、そこから意味を広げて、「見通しが悪いこと」だと思ったかもしれない。)

わたしは「うんぬん」ということばがあることも知っていた。家には1950年よりも前に出た「総ルビ」の本もあったから、「云々」に「うんぬん」とルビがふってある例にもたぶん出会っていたと思うが、ルビなしの「云々」を「うんぬん」と読めるようになったのはかなり大きくなってからだったと思う(中学卒業ごろだっただろうか?)。

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小学校で習うべき字を決めてそれには「云」を含めないとか、「いう」は「言う」と書くとかいうのは、第二次大戦後の日本の「当用漢字表」「当用漢字音訓表」などを含む国語政策と国語教育政策のあらわれだ。わたしは子どものころすでに、そのような政策に対して、漢字を使う自由を制限するものだとか、日本語の伝統を断ち切るものだとかいう、批判があることは知っていた。しかし、わたし自身は、日常に使う漢字やその読みかたの種類を限定することは、望ましい標準化だと思っていたし、(当時)新しい標準に従って書かれた本のほうが、その標準ができる前に出版された古い本よりも読みやすいと感じていた。

国語政策を民主主義と関連づけた議論も読んだ。国民各自が民主主義国家の主権者として政治的決定にかかわるために、また国内で生活する個人として国の法律をまもるために、読み書き能力が必要だ。義務教育で、国民各自がそこで必要となる読み書き能力を身につけられるようにするべきだ。国民が国民として生活するために知っておくべき読み書き能力の水準は、義務教育で教えきれるものであるべきで、それよりもむずかしくするべきではない。わたしはそのような議論がもっともだと思った。

しかしその後の国語政策は、漢字やその読みかたの制限をゆるめるほうに進んだ。学校で習う字の種類はふえ、それを覚えることの達成度の個人差は大きくなったと思う。同じ語(と考えられるもの)についての漢字の使い分けには、必ずしも明確な正解がないのだが、適不適はあるように思われて、多くの人が自信をもてないことがふえてしまったと思う。

漢字の制限をゆるめる政策は、「当用漢字表」制定以前の教育を受けた世代の人たちが、自分たちにとって自然な文字づかいを次の世代の人にもさせようとしたことによるのだろうか。あるいはそれだけではなく、戦後民主主義の理念をも否定しようとした政策だったのだろうか。義務教育を終えればみんな国民として必要な読み書き能力が身についている社会よりも、同じ教育課程を終えた人のうちでも読み書きがよくできて優遇される人とあまりできなくて冷遇される人が生じる社会のほうがよいという判断による政策だったのだろうか(これはちょっと悪意を読みこみすぎの解釈だと思うのだが)。

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(ここから、ついでに思いあたった断片的なことをいくつか列挙する。)

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「云」といえば、「芸」の件もあるのだった。「当用漢字字体表」では「藝」(ゲイ)の新字体として「芸」を採用した。この新字体は略字体だった。ところが、「芸」という字は昔からあって、それは形声文字で、部首が くさかんむり であることから、ある種類の草をさすものであり、音をあらわす部分が「云」なので、音は「ウン」なのだった。なお「藝」の中国の簡体字は「艺」である。

他方、「伝」は「傳」の新字体で、草書に基づく略字体だった。中国の簡体字「传」も草書に基づく略字体だが、「云」とはあまり似ていないものになっている。

漢字は発音にかかる時間のわりに画数が多くて、手で書くと時間がかかりすぎたり手が疲れたりする。手の動きが楽な字体を使いたくなるのは当然なのだ。草書もそのために発達したものだが、近代には活字が発達し、手書き文字も直線を主として構成される楷書体が読みやすいとされることが多くなった。そこで、草書体の字を楷書体の字に混ざって不自然のないように変形した字体が、日本、中国それぞれで使われるようになった。草書を経由する変形によって、もともと別々だった字の部分が似た形になってしまうことはありがちなことで、とがめていたらきりがないと思う。ただし「芸」のように同じ形になってしまう例は要注意なものとしてリストにしておくべきだろう。

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「でんでん」と聞けば、「電電公社」があったころならば、「電電」つまり「電信・電話」だと思っただろう。今は電電公社もないし、電信あるいは電報もほとんど出会わなくなったので、このことばも過去のものと言えそうだ。

「伝々」ということばはたぶんないと思うが、わたしがその表現から思いあたるのは「伝言を重ねるにつれて情報が化けること」だ。

たとえば、「X氏は『云々』を正しく読めなかった」(A)という話が伝わるうちに「X氏は字が読めない」(B)となるかもしれない。しかし、Aが事実の適切な指摘だとすれば、Bはそれを一般化しすぎでX氏に対して不適切な形容だろう。ここで、Bを、情報が化けているかもしれないという旗をあげた形で「X氏は字が読めない伝々」という形で表現したらどうだろうと思った(たまたま思いついただけで、みなさんに勧めるわけではない)。

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原稿を、声を出さないで読むとき、(たとえば「云々」を「伝々」と) 読みまちがえたままになったり、文字としては正しく読んでいても正しい読みかたをしていなかったりすることは、よくあると思う。

「いう」の関係で思いだしたのだが、わたしが子どものころ、少し古い(1950年ごろ以前に出た)本にはよく「所謂」という文字列が出てきた。わたしは声を出して読んだわけではないが、「ショイ」と読んでいた。(なお「謂う」も「いう」であることは知っていた。) 話すときに「ショイ」などと言って恥をかくことが生じなかったのはなぜか考えてみると、話しことばの手本としては1960年代当時の新しい(当用漢字音訓表にだいたい従っている)本を参照していたからだと思う。

氏名の順序をひっくりかえすのか、ひっくりかえさないのか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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日本人が名まえをローマ字で書くとき、氏名[この用語については2節参照]の順序をどうするか、また、family name [2節参照]を全部大文字にするのがよいか、ということが、話題になっていた。

【ここで「ローマ字で書くとき」としておいたが、「英語で書くとき」というふうに問題をとらえている人のほうが多いだろうと思う。しかし、日本語だが文字だけローマ字にしたいこともありうるし、英語以外の外国語の中で使われるためにローマ字表記にすることもある。わたしはそれを総括的にとらえるべきだと思うので、このような表現をしている。】

このことについて、わたしは、このブログを始めるより前に、英語で、ウェブページ[To transpose or not to transpose ... personal names]に書いていた。ここでは、そのページの内容を自分で日本語になおし(3節)、その前おきを補足する(2節)。

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人の名まえがどんな要素から構成されるかは、民族的伝統によってさまざまだ。近代国家はそれぞれに名まえのつけかたを標準化するが、そのしかたはそれぞれの国家の近代化の主導権をとった人々の文化を反映しており、国家どうしではちがいがある。

欧米(ヨーロッパ・アメリカ)の大部分の国(すべてではない)と日本を含む東アジアの大部分の国の制度は、名まえがfamily nameとpersonal nameという部分からなるという、大まかに同じ類型にまとめることができる。

この記事の日本語版では、ひとまず、family nameとpersonal nameという英語の表現をまぜる形で書いてみる。今後、別の表現に書きかえるかもしれない。

日本語には、「苗字(みょうじ)」と「姓」と「氏」という語があり、今では同じ意味に使われているが、伝統的な意味は同じではなかった。また、現代日本の制度では夫婦とその未婚の子どもが同じfamily nameをもつのが原則なので、結婚する際に一方がfamily nameを変える。中国や朝鮮(韓国)【以下便宜上「朝鮮」という表現で代表させる】では、結婚しても各人のfamily nameは変わらず、したがって夫婦のfamily nameは違うのがふつうである。さらに、世界にはfamily nameを複数もつ人びともいる。スペイン語圏では、父母のそれぞれから受け継いだfamily nameをならべる。そのような事情のちがいにこだわらず広くかこんだ表現として「family name」を使うことにする。

名まえのうちfamily nameでない、個人ごとにちがう部分を呼ぶのにも、適切なことばがない。「氏名」が「氏」と「名」で構成されていると見た場合の「名」のほうであり、「名まえ」と言うこともあるが、そのことばは「氏名」全体をさすこともある。「下の名まえ」という表現が聞かれるが、これは、「family name, personal name」という順序と、縦書きの文字表記を前提としたもので、そうでない文脈では意味をなさない。英語でも、personal nameは「個人の名まえ」であって「氏名」全体をさすこともありうるのだが[この記事の英語版の表題ではそうしてしまったのだが]、family nameと組で出てくる場合はそれ以外の部分だとわかるだろう。Christian name、given nameなどは文化伝統に依存するので避けたい。ひとりがpersonal nameを複数もつことは、現代日本の制度では想定されていないが、世界ではめずらしくない。

なお、世界には、名まえにfamily nameの要素を含まない民族もたくさんある。わたしはそれぞれの民族の事情をよく知らないので、詳しく論じることはしない。世界の人名をいっしょに扱う場合のむずかしさについてだけ、次の3節の中でふれている。

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【2004年6月22日初出、2008年5月6日改訂の英語版から、今回日本語訳。[...]の形の部分は、日本語訳の際に補足した。】

わたしの知るかぎりで、日本国民はみんな(天皇と皇族を除いて)法的にはひとつ(だけ)のfamily nameとひとつ(だけ)のpersonal nameをもつ。そしてそれをならべる順序は、family nameがさきだ [「さき」という表現にあいまいさがあるかもしれないので注記しておくが、この表現は「まずfamily nameがくる」という意味である]。日本語の中で使われる限りでは、これはゆらぎのない規則だ。

しかし、日本人の名まえを、英語やそのほかの西洋の言語の中で使うときには、大部分の日本人は氏名の順序を逆にし、personal nameをさきにする。これが「事実上の規則」になっているように思われる。

【歴史上の名まえについて、問題が生じる。近代になる前の日本では、みんながfamily nameをもっていたわけではなく、また、それをもつ人にとってのfamily nameの役割は近代と同じではなかった。それに加えて、およそ西暦1200年よりも前の歴史的な人の名まえは、family nameとpersonal nameとの間に助詞の「の」を入れた形で発音されるのがふつうである。この「の」の機能は、フランス語の「de」、ドイツ語の「von」、オランダ語の「van」などと似ているが、前後の向きが逆なのだ。氏名の順序を逆にするならば、この「の」をどうしたらよいだろうか?】

【また、作家の筆名や俳優の芸名などについても問題が生じるかもしれない。たとえば、「江戸川乱歩」という筆名は [「江戸川」の部分がfamily nameのような気がするが] Edgar Alan Poe [「Poe」がfamily name]のパロディーである。氏名の順序を入れかえるとそれが伝わらなくなってしまう。】

中国語や朝鮮語では、順序はfamily nameがさきだ。そして、中国人や朝鮮人の氏名の順序は、英語でも入れかえられないことが多い。少なくとも新聞などの報道記事ではそうだ。 わたしが思うに、中国人(漢民族)や朝鮮人の氏名は、ひと息で読まれることが多く、family nameとpersonal nameを分けて認識することが心理的に楽でないのだと思う。しかし、日本人の氏名はふた息に分けて読むことができるのだ。

しかし、中国人や朝鮮人の自然科学者が英語で論文を書くとき、彼らは、日本人と同様に、氏名をfamily nameが最後にくるようにならべかえるのがふつうだ。(中国で出版された英語の出版物はこの習慣に従わないものもある。ローマ字表記された中国人の名まえから、どの部分がfamily nameかを判断するのはむずかしいことがある。)

著者名索引をつくるときはfamily nameのアルファベット順にならべるのがふつうであり、そのようなときには欧米人が氏名の順序のならべかえをせまられる。少なくとも第一著者について、family nameがさきになるようにする。入れかえを明示するため、コンマを入れることが多い。しかし、コンマは、複数の人の人名をならべる際のくぎりとしても使われる。その結果の文字列はややこしいことになる。たとえば、「Boyle, Robert, and Charles, Jacques Alexandre César」という表現はなん人の人物を示しているのか、そしてどの部分がfamily nameなのか? [この例は例として示すために作ったものである。ボイルとシャルルは離れた時代に生きた人なので彼らの共著の著作物があるわけではない。] 「Boyle, R., and Charles, J. A. C.」ならば意味はわかるが、これでもコンマが多すぎる気がする。

わたしは、順序入れかえをなるべく少ない回数ですませるべきだと思う。名まえのうちのfamily nameの部分を示すには、順序以外の指標を使うことができる。近ごろ、日本で出版された英文の学術雑誌には、著者名のfamily nameの部分を全部大文字にすることによって、氏名のうちのどこに現われるかにかかわらず目だつようにするものが多くなった。しかし、世界には、family nameをもたない民族や国もある。もしfamily nameだけを全部大文字にすると、そういう民族や国の人の名まえが、日本人・中国人・朝鮮人・西洋人に比べて、見えにくくなってしまう。学術雑誌の規則としては、family nameではなく、氏名のうちで主要な検索キーとして使われるべき部分を全部大文字にすることにするべきなのだと思う。

もっとも、わたしは、全部大文字にするのは、印象が強すぎると思う。「small capital」[つまり、頭文字以外は、大文字の字体だが小文字と同程度の大きさにした表現]が、family nameを (もっと正確には、氏名のうち主要な検索キーとなる部分を)示す指標には適していると思う。

わたしは、日本のいくつかの[横書きの]学術出版物で、外国人のfamily nameがsmall capitalで書かれていたのを覚えている。たとえば雑誌『科学』ではそうなっていた(わたしがそれを認識したのは1970年代のことで、今はそのやりかたをやめてしまったが)。【このやりかたは、何十年も前に、おそらくドイツ語圏から導入されたのだろうと思う。ドイツ語では、すべての名詞の頭文字を大文字にするので、固有名詞が目だつようにするにはそれだけではないしかけが必要になるのだ。[そこでsmall capitalが使われるのを見たことがある。ただしわたしが見たドイツ語の文献の数は少ないので、どのくらい普及した方法なのかは知らない。]】

わたしは、できるかぎりこのやりかたを使いたいと思っている。

残念なことに、HTMLでは明示的にsmall capitalを指定できない。[cssでは指定できるかもしれないが、まだ調べていない。] わたしは[family nameを全部大文字で書いたうえで]「<small>...</small>」でfamily nameのうち頭文字以外の文字列をくくることにしている。【かつては「<font size="-1">...</font>を使っていたが、smallというタグを知って、そのほうが適切と判断した。】これで、必ずというわけではないが、多くのブラウザ上でsmall capitalのように見える。このやりかたの欠点は、HTMLのソーステキストではたとえば「R<small>ICHARDSON</small>」のように記録されているのだが、それが「Richardson」や「RICHARDSON」の文字列による検索で見つからないかもしれないことだ。また、HTMLのヘッダの中では期待どおりの文字の大きさにならないかもしれないことだ。

[わたしはブログでないウェブページではsmall capitalを使っているが、ブログでは(HTMLタグを直接書きこむ場合をふやしたくないので)使っていない。文献リストの部分に限って、著者名中の主要な検索キーになる部分を、かつては全部大文字にしたこともあるが、近ごろは太字にすることを試みている。]

英雌

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2015年12月はじめごろ、「英雄」ということばを使おうとして、ふと、「雄」という字が気になった。

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「英雄」は西洋のことばの hero に対応する意味で使われることも多い。(もっとも hero の訳語はほかに「主人公」などいろいろあるが)。英語の場合についていえば、女性の場合には heroine という語があるが、hero も男性専用というわけではなく、女性を含めて使われると思う。形容詞の heroic は明らかに、男性に限らずに使われる。日本語でも、「英雄的な」という形容語(学校国語文法でいえば「形容動詞」)は、女の人をさす場合も抵抗なく使われていると思う。名詞の「英雄」も「英雄的な人」をさす場合には男女区別なしに使われると思う。

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ところが、現代日本語で、漢字の「雄」は、次のような使われかたをする。

  • 「雌/雄」の対で性別をあらわす。現代日本語では、主としてヒト以外の生物について使われる。「めす/おす」は学術用語としてはかながきが奨励されているが、「し/ゆう」という音読みでこの字が組みこまれている学術用語もある。
  • 「雄」は、男の個人名の終わりの部分の「お」として、「男」「夫」と並列に使われる。(女の個人名に使われることがまったくないわけではないが少ない。)
  • 「雌雄を決する」のような、「雌」と組になった、直接には性別を示すものではない慣用表現もいくつかある。ただしこれは昔の人の男女の役割に関する固定観念が反映していることが明らかなので、現代の公的な場ではあまり使われなくなっていると思う。
  • 雄大な」のような、「雌」との対応がなく、意味も性別とはあまり関係ない熟語がある。

「英雄」の「雄」も「雄大な」のなかまと感じられれば、性別にかかわらず使えるだろう。しかし「雌/雄」の「雄」だと感じられると、男に限りたくなってしまうのだ。

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「英雄」の「雄」が「雌/雄」の「雄」だとすれば、理屈のうえで、同様な特徴をもつ女の人をさす「英雌」ということばがあってもよいと思った。

ただし、その日本語での読みかたは「えいし」となるだろうが、その音を聞いてもその字がうかびにくいだろう。わたしは「A氏」と思ってしまう。「衛視」などを思う人もいるかもしれない。だから、もしだれかが使い始めたとしても、定着しにくいだろうと思う。

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実際使われているかどうか、検索してみた。ただし、しっかり調査をしたわけではない。Google検索エンジンを使っているにちがいない別会社のウェブ検索で「英雌」という文字列を入れて、出てきた数十のサイトの表題と該当部分の文字をながめ、気になった十件ほどの本文に目をとおした。とくに気になったものだけメモをとった。またTwitterでこの文字列を含むtweetを検索してみた。

日本語の範囲では、「英雌」という文字列が見つかることはあるが、冗談あるいはその場限りの思いつきとして使われているようで、そういう語が通用しているとは思われなかった。

中国語のウェブページでは、あまり多くはないが、語として使われていることがあった。

  • 辛亥革命前後の民権運動の女性の活動家たちを次の世代の人がさして「英雌」という。「百度(Baidu)百科」の「英雌」の項目のページにはこの意味だけがあげられている。多数の人々のために苦労を引き受けた人という意味が含まれていると思う。紹介されている人の活動は武闘的ではなく非暴力的だったようだ。ただし、同様な運動にかかわって「英雄」と呼ばれる男の人の活動も非暴力的だったのかもしれず、「雌」の字に非暴力的という含みがあるとは言えないと思う。
  • 映画の題名や登場人物紹介に「英雌」が出てくることがある。代表的かどうかは未確認だが、アニメーションの一例を見てみると、武闘の達人であって女性である、そして悪者ではない(善悪の対立構造だとすれば善の側)、という設定のようだ。これは伝統的な「英雄」の役割そのままで、たまたま女性なので「雄」を「雌」で置きかえただけのように思う。ただし絵に見られる身体の外観は女性の特徴があきらかになっている。「超級英雌」という表現を含むものもあった。「Super-heroine」の訳語なのだと思う。
  • 別の映画では、女子スポーツ選手をさして使われている。
  • 実在の女子スポーツ選手を紹介する記事に使われることもある。
  • 実在の女性である政治家を紹介する文章の表題に「英雌」が使われていた。ただし本文には出てこない。政治家をさすのにふだん使われる表現ではなく、少ない字数で読者の注目をひきたい表題という文脈でだけ有効な表現なのだろうと思う。
  • 実在の女性である学者を紹介する文章の表題に使われているものもあった。数学者を「数海英雌」として紹介している。ただしこれも表題だけで、本文には出てこなかった。

わたしが認識できたのはこれだけなので、まったく確かな知見ではないのだが、おそらく、中国語圏でも多くの人にとって「英雌」は聞いてわかることばではなく、書きことばとしてだけ使われるのだろうと思う。

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わたしは日常語としては「英雌」を使わず女の人についても「英雄」を使うことにした。ただし、文章の表題のような特殊な位置で使う可能性は保留しておこうと思う。

- 7 [2017-06-10 追加] -
Hidden Figuresという映画([もとになった本の読書メモ])の香港で公開された際の題名が「NASA無名英雌」となったそうだ。

「まなざす」についての議論をきっかけに、専門用語のこと、ことばつくりのこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2016年1月26日ごろ、Twitterで、「まなざす」ということばを使った議論をしている人たちと、「まなざす」ということばは日本語として変だと言う人たちとの間で、感情的な言い合いが起きているように見えた。

Twitterという場の次のような特徴が、このような状況で感情的すれちがいを起こしやすいのだと思う。

  • 字数制限がきびしい。短い表現を使いたくなる。その意味の説明は省略されることが多い。
  • なかまうち向けの発言と全世界向けの発言との区別がない。(なかまうち向けに徹するならば「鍵つきアカウント」という方法もあるが、それでは、なかまをふやすことがむずかしい。) 書いたほうはなかまうち向けのつもりでも、公共向けの発言としてふさわしくないと非難されることがある。

「まなざす」ということばは、いくつかの人文系の専門分野での専門用語(technical term)であるらしい。

わたしにとっては、「まなざし」という名詞は、自分からはほとんど使わないが、わかることばだ。しかし「まなざす」という動詞はよくわからない。とりあえず「見る」とあまり違わないと思って、それを含む議論のおよその意味を推測することはできるが、正確にわかったわけではないので、議論に参加することがむずかしい。

名詞「まなざし」から動詞「まなざす」がつくられたことについて、言語学者のdlit さんが[2016-01-26「動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか」]という記事を書いている。わたしは(専門的評価はできないが)その議論はもっともだと思う。

それを見ながら、わたしは、(「まなざす」という例に限らず)「専門用語を使うこと」と「用語をつくること」についていろいろ考えるところがあった。この記事ではそれを述べたい。

なお、わたしはここで、「まなざす」ということばを使って議論されていた問題を論じることはしない。(その問題についてはよくわかっていないのだ。)

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専門家の集団とその用語については、このブログの[2013-03-05「複数の専門の用語体系を使える人をふやすために」][2012-11-23「各専門は、それを副専門にする人のための研修の場を」]で論じた。各専門集団はそれぞれ用語体系を共有する。用語の意味は、ときには明示されていることがあるが、多くの場合は専門集団が共有する暗黙の知識になっていて理解するためには専門集団の人と接触して勉強する必要があることが多い。

専門は多重構造になっている。たとえば、(このブログの「気象むらの方言」のカテゴリーの記事群で述べてきたように) 気象学の用語は、広い意味の物理科学に共通なものと、気象学独特のものとがある。また、同じ人が複数の専門の用語を使いわける必要があることもある。ひとりの人が複数の分野の専門家になることはなかなかできないが、自分の専門以外の分野の専門用語を理解して使うことは努力すればできるし、そういう人(わたしは「通門家」と呼びたい)がふえるべきだと思う。

「まなざす」の意味を知ろうと思って検索をかけたら、「東大誰でも当事者研究サークル (文責:べとりん)」の[「まなざし」って何?]というページが見つかった。ただし、表題にも現われているようにこれは名詞「まなざし」に関するものだ。また、学生サークルのページであり、内容が的確であるかどうかはわからない。ともかく、「まなざし」ということばを使っている思想家(哲学者など)は複数いて、人によってその用語がさすものは違いがある、ということはたぶん確かだろう。「まなざし」が人文学の専門用語(あるいは「思想用語」というべきか?)であることを理解しても、書き手と読み手が別々の思想家の議論に基づいて意味をとらえていると、議論のすれちがいが起きそうだ。

わたしは「まなざす」のような専門用語を公共の場で使うなと主張するつもりはないが、もしそのことばを使う人がわたしのような者を議論に参加させたいならば、意味の説明を添えてほしいと思う。ネット上ならば、説明の文章があるページへのリンクを示せばよいと思う。

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専門的な議論をしようとすると、ときに、専門用語を作ることが必要になる。説明すると長くなってしまうことを、短い記号で操作したいことがあるのだ。

「仕事」のように日常用語と同じ単語に別の意味をのせるのと、1860年代に「エントロピー」ということばが作られたように新しい概念には新しい用語をあてるのとには、一長一短がある。

日本語の語を構成する要素には、大きく分けて、やまとことば[注]、漢語、西洋からの外来語の3つの層がある。

  • [注] この「やまとことば」は、漢字がはいってくる前から日本で使われていた言語をさす、苦しまぎれの表現である。「やまと」について、沖縄との関係、出雲との関係、東国との関係などを考えだすと、使ってよいか疑問を感じる。「本来の日本語」という表現を使うことも考えたのだが、漢字がはいってくる前の日本列島に単一の言語が確立していたような印象を与えるのもまずいとも思う。

日本語の専門用語には、漢語の要素から組み立てられたものが多い。明治時代、やまとことばと漢語の両方の提案があって、生物の分類の名まえ(和名)や、物理学のいくつかの概念に、やまとことばが残ったが、大部分は漢語が勝った。漢語を使うことには、東アジア共通の語彙をつくるという積極性もあった。しかし、日本語にとっては、発音が同じで文字がないと区別できない用語が大量に生じるという欠点があった。(中国語・朝鮮語ベトナム語でも同音衝突はあるものの、日本語よりはよく区別できる。)

20世紀後半ごろからの新しい用語は、西洋語からの外来語が多くなっている。やまとことばだけでなく漢語から用語を組み立てる機能も、弱まっていると思う。

わたしは、新しい用語を作りたいときや、用語があっても聞いてわかりにくいときに、やまとことばの要素から組み立てたいと思う。次のような思いつきを書いてみたことがある。

  • 「不可逆性」は「もどせなさ」のほうがよいと思った。しかし「可逆性」をどうするかで詰まってしまった。(別ページ[2006-04-25「もどせなさ」])
  • Sourceが「みなもと」ならばsinkはなんだろう、と考えて「みなずえ」に至ったのだが、時間をかけて紹介できる場でないと使えそうもない。(別ページ[2006-06-06「sink ... みなずえ(?)」])

「まなざす」の場合に見られたように、やまとことばによる用語は、日常用語と似たひびきを持っているにもかかわらず、日常用語そのものでないので、気もちが悪いと感じる人が出やすいのだろう。しかし、試みがふえれば、気もち悪く感じることは減ると思う。

なお、漢語の要素から組み立てることについては、漢字二字以上の熟語を単位としてさらに複合語を作るのはよいが、単漢字から新たに組み立てることは考えないほうがよいと思っている。

英語と日本語が混ざるとき

東海道新幹線の車内で英語のアナウンスを聞いた。録音にちがいないのだが、いくつかの駅でのアナウンスでは明らかに単語ごとに録音したものを機械でつないでいるのとは違って、文単位で人が続けて読んだもののようだ。それでいて、英語の単語は英語らしい発音なのだが、日本語の固有名詞(駅の名まえ)のところでは日本語らしい発音に切りかわる。

日本語の固有名詞が英語にまざるとき、日本語のローマ字表記の約束を知らないで読むと、ひどいことになる[別記事「You Know Park」参照]。しかし日本の交通機関のアナウンスでは、日本語での読みかたを知っている人が確認するので、そこまでひどくはずれたことは起こらない。英語ふうの発音といっても、日本語の発音の要素がそれぞれ英語にある要素で近似されるのだ。

東海道新幹線の営業が始まってまだ日が浅いころ(1960年代だったと思う)、新聞の囲み記事に「ニャゴウヤ」という見出しのものがあった、と記憶している。「英語のアナウンスの中でのNagoyaという地名の発音がそのように聞こえた。日本語話者の発音とかけはなれた発音で紹介することは外国人の旅行の助けにならないのではないか。」という趣旨だった。その後しばらくして(この囲み記事がきっかけかどうかは知らないが)アナウンスは日本語の「ナゴヤ」(など)の発音への近似の度合いが高いものに変えられた、と記憶している。

ところで、英語と日本語の発音の違いには、個別の音の発音に関する特徴と、アクセントやイントネーションに関する特徴がある。日本で育っておとなになってから英語を流暢に話すようになった人の英語は、個別の発音は日本語的で、アクセントやイントネーションが英語的であることが多いと思う(この両方の点で極端な例とそれほど極端でない例を知っている)。逆に、英語圏で育っておとなになってから日本語を流暢に話すようになった人の日本語は、個別の発音に英語的なくせが残っているが、アクセントやイントネーションは日本語的であることが多いと思う。

最近の東海道新幹線の英語アナウンスの日本語の固有名詞の発音は、個別の発音も、アクセントやイントネーションも、日本語的なのだった。ひとつの文の中で語ごとにこのような切りかえをすることは、だれでもできることではなく、英語と日本語の両方のアナウンスあるいは声優の訓練を積んだプロだからできているのだと思う。ただし、アナウンスとしてこれが最適かどうかはよくわからない。イントネーションに不連続が生じ、その効果は聞き手によって違うと思うが、わたしの場合は英語を聞く意識と日本語を聞く意識の間を行き来させられて疲れる気がするのだ。

他の乗りもののアナウンスでは、日本語の固有名詞のところも切れめなく英語の文に聞こえるものがある。東海道新幹線の場合に比べると、いくらか英語ふうの発音になっていると思うのだが、まだ、個別の発音、アクセント、イントネーションに分けて検討してみていない。英語の文としてつながって聞き取れるので、アナウンスの意味を理解するにはむしろこのほうがわかりやすい気がする。日本語中の発音を近似することと、英語の文の要素として適切な音になることとは、緊張関係にあって、両方を完全に達成することはできないが、うまい妥協がありうるのだと思う。